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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

未知の南極大陸への探検

南極大陸発見への歴史の第一期は1780年頃までです。多くの探検家や航海士が可能な限りの南端をめざして数々の試みをしました。その中にはテラ・オーストラリスの発見こそ最大の目的だとする者もいれば、航海中に暴風雨に見舞われ航路をはずれて偶然に地球最南端に近い岬にたどりついた貿易船もいました。
その結果、理論上の「未知の南の大陸」の神話が次々と崩されていきました。
オセアニアとも離れていることも分かってきました。海図上の南極大陸は次第に面積が縮小したものが描かれる様になり、古代ギリシャの推論は否定される様になってきました。1498年バスコ・ダ・ガマ が喜望岬を回る航海に成功し、1520年にはマゼランが後に自らの名前を冠した海峡の通行に成功し、更に1578年、フランシス・ドレーク が後にドレーク海峡と名づけられた海峡を航海し地球の最南端には広大な海洋が広がっている事を証明してみせました。
1642年と44年には アベル・タスマン がその航海で、オーストラリア大陸が南に大きな海洋が広がる独立した大陸である事を証明しました。
また、タスマンはニュージーランドの西海岸も発見しています。
理論上の巨大な南大陸と考えられていたものが実際は僻地である南極付近にある2~3の島であることが分かり、古代の南大陸は次第に地図から消え去っていきました。
この探険初期を締めくくるのが、ジェームズ・クック(1768-80)の3度の航海と、イブ・ジョセフ・デ・ケルゲレン・レマレク(1771-74)による2度の航海でした。

この時代に最初に南大洋で発見されたのは、1675年リマからロンドンに向けて喜望岬を周る航海に出ていた商船が嵐に流されて航路をはずれて偶然見かけたサウス・ジョージア島でした。1739年フランスの探険家によって発見されたブーベ島は、しばらくの間その島が南極岬と思われていました。(氷に阻まれて島を巡る航海が不可能だった為です。)
その他にそれより北に位置する南極周辺の島々のいくつかが、再び地図上に出現しはじめました。(もっともそれが正確な位置を示していたかどうかは怪しいものですが。) 1505年に発見されたゴウ島(Gough Island)、1522年にはアムステルダム島(lle Amsトンerdam)、1618年にはサン・ポール島(lle Sainトン-Paul),1663年にはプリンス・エドワード諸島(Prince Edward Islands)と地図上に新たに発見された島々が次々と描き込まれる様になりました。
しかし中には実際に存在しない島々もあり、最高の地図とみなされたものにさえ、幻の島が記載されている事もありました。1700年代後半になってクロノメーター(精密時計)の精度が格段に進歩し、経度を正確に計測できる様になりました。
キャプテン・クックも2回目の航海で、この最新型クロノメーターをたずさえ「リボリューション号」と「アドベンチャー号」を率いて1773年1月17日に初めて南極圏に入り、1774年1月30日に当時の最南端記録である、南緯71°17’、 西経106°90’の位置(サーストン島の北側)まで到達したのです。そして1775年1月17日には南極地区で最初にサウス・ジョージア島に確実に上陸した人物となりました。
クックはある意味では不運な人でもありました。彼が最南端まで航海した二箇所は、いずれも南極大陸は更にその南にあったのです。他の海域であったなら南極大陸を最初に発見した人物になったかもしれません。

しかしながらクックの航海の実利はサウス・ジョージア島とサウス・サンドイッチ諸島が発見されただけでなく、同時に膨大な数のオットセイの生息が報告された事でした。彼は、三度目の航海の途中、ハワイで殺されてしまいましたが、オットセイの毛皮を中国と交易する事による多大な富の可能性がわかり、南極の歴史が次の段階を迎える端緒となりました。クック自身は南極大陸の発見にそれほど興味を抱いていず「暖かな太陽光線の恵みを受ける事も無い、永遠に氷に閉ざされた場所、その恐ろしく野蛮な光景には語るべき言葉も持たない。」と記述しています。

さらに東ではフランスの探検家、イブ・ジョセフ・デ・ケルゲレン が1772年に、後に自身の名前を冠した島を発見しましたが、島の経済価値を過大評価した報告書を残しました。国王がその島を植民地とする目的で1773年に再び彼をその島に送りましたが、不毛の地としての島の実状が暴かれる結果となり、植民地化は断念され、ケルゲレンは20年の禁固刑に処せられました。(後に6年に減刑されましたが)

(南極旅行&南極クルーズ7-2)