アザラシ(オットセイ)猟の時代
クックの報告後、数年のうちにアメリカ、ヨーロッパ、そしてロシアのオットセイ猟師たちがはるか南の地までやってきました。クックの2回目の航海からわずか27年後の1802年までには、サウス・ジョージア島、ケルゲルン、ハード島のオットセイはほとんど絶滅していまいました。猟師は更にオットセイを求めてニュージーランドの本拠地から南下し、1800年にはアンチボーズ諸島で、1806年にはオークランド諸島で、そして1810年にはキャンベル島とマッコーリー諸島でオットセイの群れを発見し、早速、猟に着手しました。その他の猟師もサウス・ジョージア島を基地にして、サウス・サンドイッチ諸島およびサウス・シェトランド諸島でオットセイを発見すると直ちに猟を始めました。新しい島が発見される度にオットセイのコロニーは数年のうちに絶滅状態になっていったのです。
一例をあげれば、サウス・シェトランド諸島は、嵐で流されて航路を外れたウィリアム・スミスによって1819年に発見されたのですが、この発見の知らせがもたらされると、次の猟のシーズンである1820~21年にはオットセイの毛皮や油を取るために40隻以上の船が島にやってきました。
その翌年1821~22年のオットセイ猟のシーズンには90隻以上の船が諸島内で操業を行っていました。諸島の発見から3年目の終わり頃には32万頭分のオットセイの毛皮と940トンの油がサウス・シェトランド諸島から持ち去られ、実利目的の為に島の貴重な資源が破壊されつくしてしまったのでした。
南極大陸そのものが発見されるのは1820年1月27日になってからで、ロシアの探険家ファビアン・ベリングスハウゼンによってでした。その後、二夏に亘る航海でベリングスハウゼンは南極大陸を周航した二人目の人となりました。しかも彼の航路はクックよりも遥かに南のルートでした。
イギリス海軍のエドワード・ブランスフィールドは1819年にサウス・シェトランド諸島の調査に派遣され、1820年1月30日におそらく南極半島中部のダンコ海岸とみられる陸地を発見しています。同じ年の暮れには米国のコネチカット州、ストーニントン出身の若いオットセイ猟船長、ナタニエル・パーマーが47フィートのスロープ帆船ヒーロー号でサウス・ジョージアを出航し、11月16日におそらく南極半島の沿岸と思われる陸地を沖合5kmから目撃しています。
この頃多数のオットセイ猟船がサウス・シェトランド諸島と南極半島周辺を探険していましたが、これらの船長たちが自分たちの猟場を守る為に発見を伏せておくのは当然の事でした。よってこの時代の多くの発見が一般に公開されずになされていたのは間違いありません。
1821年2月7日にはアメリカ人のオットセイ猟業者、ジョン・デイビス が南極半島のヒューズ湾に上陸し、記録上、南極大陸に足を踏み入れた最初の人々の一員に数えられています。興味深いのは、デイビス自身は上陸した海岸こそ伝説の南の大陸そのものだったと信じ、周囲にもそう語っていた事です。しかし地理学者や科学者たちが、長年探し続けていた南の大陸が確かに発見されたと結論を下したのはそれから十数年もたってからでした。
1823年にイギリス人のオットセイ猟業者、ジェームズ・ウェッデル はウェッデル海でそれまでだれも到達した事のない南緯74°15’まで達しました。今日と異なり、その年は氷がほとんど有りませんでした。ウェッデルはそこでは新たなオットセイの猟場を発見する事は出来ませんでしたが、新種のアザラシを発見し、後に彼の名前をとってウェッデルアザラシと名づけられました。
新たなオットセイ猟場を求めた最後の大規模な遠征は1838年にジョン・バレニーによって行われました。バレニーは後に彼の名前がつけられた諸島と南極大陸のサブリナ海岸を発見しましたが、わずか178枚のオットセイの毛皮を手にいれただけで遠征から戻ってきました。もうオットセイの毛皮で莫大な利益を得られる状況では無くなったのです。それに代わって獣脂が儲かるビジネスとなってきており、ゾウアザラシ、何種類かのクジラ、そしてペンギンまでもが乱獲され貴重な油に変えられていったのです。この新たな産業はなんと20世紀まで続いてきたのでした。
(南極旅行&南極クルーズ3-2)