探検
探検(Exploration)
南極という名前のルーツはギリシャ語にあります。古代ギリシャ人は地球の底に大陸があり、北半球の大きな大陸とバランスをとっていると想定していました。その名前はArkticosと呼ばれた、北の地域の反対側に位置することから由来しています。Arkticosは「クマの近く」を意味し、後のおおぐま座です。
16世紀のヨーロッパの探検の時代で注目されるまで、約2,000年の間、南極大陸はほぼ完全に忘れられていました。1520年にマゼランがマゼラン海峡を渡ったとき、彼は伝説の南大陸を発見したと思っていました。当時の世界地図には南極点を中心としたテラ・アウストラリス・インコグニタ(未知の南方大陸)と呼ばれる広大な大陸が登場しました。
さらに3世紀の間、南極は謎に包まれていました。南極圏を3回通過した偉大な探検家ジェームズ・クックでさえ1772年~1775年の間に南極大陸を周回したことを知りませんでした。
1820年頃、実際に南極大陸に到達した最初の人はアザラシ猟師でした。鰭脚類の膨大な個体数を伝えたクックの話に惹かれ、この世紀の初頭からアザラシ猟師はサウスジョージア島とフエゴ諸島に到達しました。新しい狩猟場を探すアザラシ猟師の絶え間ない動きのため、南極大陸の発見については議論の余地があります。この時期、探査だけを目的とした唯一の航海は1819年~1821年のロシアのベリングスハウゼン探検だけでした。
次の10年間でアザラシ猟をしながら南極大陸を探索した新世代の船長が登場しました。ナサニエル・パーマーはサウスオークニー諸島を発見し、ジェームス・ウェッデルは当時の最南端、南緯74度15分に到達しました。ウェッデル海は彼の名からつけられています。他に、商社のエンダービー・ブラザーズ・オブ・ロンドンが支援したピーター・ケンプ(ケンプランド発見)、ジョン・ビスコー(エンダービーランドの発見)、ジョン・バレニー(バレニー諸島の発見)、などの船長は、アザラシ猟だけでなく探検で重要な発見もしました。
しかし、科学探索を専門にしたフランス人探検家のデュモン・デュルヴィルとアメリカ人探検家のチャールズ・ウィルクス、イギリス人探検家のジェームス・クラーク・ロスの最初の航海だけで、南極大陸がついに神話ではなくなりました。特に注目に値するのは、1839年~1843年のロスの航海でした。現在では彼の名がついたロス海の奥へ入り、新たな最南端に到達しました。ロスは南緯78度で巨大な氷の垂直壁に阻まれました。 現在はロス棚氷として知られています。彼は数十年分以上の価値がある貴重な科学的資料を持ち帰りました。
ほぼ半世紀にわたる可能性の低い探査活動の後、蒸気船やノルウェーの起業家スヴェン・フォインが発明した爆発する銛「エクスプロ―シブ・ハープーンと呼ばれる爆発性の銛の発明(火薬により銛を射出する道具、即ち捕鯨砲の発明)」
など新技術が到来したことで、今まで南大洋で運に任せた捕鯨を行っていた捕鯨産業を勇気づけました。そもそも、狩猟場を探索する航海は、ビジネスの観点からはあまり成功しませんでしたが、科学的な観点からは成功しました。これらの探索で科学界が注目するほどの発見をしました。植物の化石が発見されたことで、南極大陸は過去に森林やその他の野生生物に覆われていたことが証明されました。
1897年~1899年の間、2つの探検隊が初めて南極大陸で冬を過ごしましたが状況はまったく異なりました。1隊目はベルギーのエイドリアン・デ・ジェルラッシが率いた隊で、彼らの船ベルジカ号が海氷に閉じ込められ、南極半島の沿岸で冬を過ごすことを余儀なくされました。この遠征の重要性は、南極の冬を乗り切り、年間を通して科学的情報を収集する人間の能力を試したことでした。2隊目の遠征は、カルステン・ボルクグレヴィンクが2回目に上陸したアデア岬で陸上の小屋で冬を過ごしたことです。
20世紀初頭には5ヶ国の探検隊が南極海に現れました。1901年~1904年にイギリス探検隊のロバート・ファルコン・スコットは、アーネスト・シャクルトンとエドワード・ウィルソンをパートナとして初めて南極高原へ入り、南緯82度まで到達し新記録を樹立しました。困難が増してきたため、彼らは船に戻ることを余儀なくされました。同じ時期に、ドイツのエリック・フォン・ドリガルスキーはインド洋の南にある南極大陸の海岸を探索し、皇帝ヴィルヘルム2世に敬意を表して新しく発見した土地に名前をつけました。
世界的に最も注目を集めた探検は、おそらくスウェーデンのオットー・ノルデンショルド隊が直面した波乱です。彼らの船、アンタークティク号が氷に閉じ込められ沈没した後、乗組員はお互いの存在がわからぬまま無意識のうちに3つの孤立したグループに分かれて冬を過ごさなければなりませんでした。凍った海の真っ只中で2つのグループが偶然会い、この場所を「ケープ・ウェルメット」と名付けました。翌年、スコットランド人のウィリアム・スピアーズ・ブルースはサウスオークニー諸島に小さな磁気気象観測所を設立しました。以来、南極で最も古い観測所として100年以上も運用されてきました。1903年~1905年に、フランス人のジャンB・シャルコーは800 km以上の南極海岸を作図しました。偉大な成功によって、彼は1908~10年にも航海を繰り返しました。
沿岸探索によって、これまで得られた結果は満足以上のものと考えられていましたが、大陸の内部については疑問が残っていました。その後、南極点が次の探検の主な目標となり、そこへ到達する激しい競争が巻き起こりました。アーネスト・シャクルトンは2度目の南極大陸訪問となる、1907年~1909年のニムロド号遠征でこの時代を開きました。南極点到達まであと140kmまで辿り着きましたが強制的に引き返すことを余儀なくされました。一方で同隊の他のメンバーは、かろうじて南磁極に到達し、エレバス山の登頂にも成功しました。
ロバート・ファルコン・スコットは南極点に到達する最初の男になることを決意し1910年に再びイギリスから出航しました。ほぼ同時に、極地探検家のロアール・アムンセンはピアリーが北極点に到達したというニュースを受け、彼の計画は北極点から南極点へ180度変更し、イギリス人と直接競争することになりました。57日間の旅を経て1911年12月14日、アムンセンは南極点にノルウェー国旗を立て「当初の夢から遠く離れてはいない」と表現しました。非常に困難な時を経て1912年1月17日、スコットはウィルソン、バウアーズ、オーツ、エヴァンスと共に南極点に到着しましたが、ノルウェー人が先に到達していることに気づきました。心理的な影響はその後の結果に大きな影響を与え、イライラして疲れ果てた5人の探検家は帰り道で死に至りました。
第一次世界大戦の勃発にもかかわらず、不屈の精神を誇るアーネスト・シャクルトン卿は南極点を経由し旗を立てながら南極大陸を横断するために南極へ戻ってきました。しかし彼は自分の船エンデュアランス号の沈没など、大きな不運に遭遇してしまいました。シャクルトンは凍った海で何ヶ月もキャンプをした後、仲間全員を移動させ険しいエレファント島へ上陸することができました。不屈の探検家は、航海の歴史上、最も困難な航行と言われる、屋根のないオープンボートでサウスジョージア島へ辿り着くことに成功し、未知の島内を歩いて横断、仲間全員が生きたまま帰国することができました。
1922年にシャクルトンが亡くなると、南極探検の英雄時代が終わり、科学機器や車両、航空機を大規模に使用した現代の時代が始まりました。新しい航空調査の主人公は1928年に南極半島上空を初飛行したヒューバート・ウィルキンス卿、その後1929年に初めて南極点を飛行したリチャード・バード、1934~35年にリンカーン・エルスワースが初めて南極大陸の横断飛行をしました。
その後の数年間は領土の主張を目的とする探検が競い合うように増え、国際社会に警告を与えました。1957年、南極への関心の回復と科学的な目標に向け協力するという考えから国際地球観測年(IGY)が始まりました。18ヶ月間、67ヶ国の科学者が広範囲に渡る研究プログラムに協力し、重要な科学的結果を導きました。
同時にヴィヴィアン・フックス卿とエドモンド・ヒラリーは、W.フィルヒナー(1909年)やE.シャクルトン(1914年)など初期の探検家が実現できなかった南極大陸横断(ウェッデル海から南極点を通ってロス海へ抜ける)の夢を成功させました。
(南極旅行/アンタークティカ21南極ハンドブック7)