歴史
歴史(HISTORY)
米海軍海軍大将ロバート・ピアリーが「ビッグ・ネイル(おおくぎ)」と呼んだ北極点到達とロシアのミハイル・ヴォドピャノフが「地球の軸の方位」と呼ばれる北極点に最初に飛行機を着陸させた正確な時間を特定することは不可能です。
人々が古代にその存在を神話化したことは間違いありません。彼らは、現在、北極星と呼ばれ、それ自体が動かなかった星の周りを回転していることに気づきました。ポラリス(ラテン語で「極の」を意味する言葉)としても知られているその星は、約1100年以来、北極の方向を示していると認められてきました。しかし、常にそうであるとは限りませんでした。地球の軸は、中央に金クギをつけた木製の洋梨形のコマ の軸のように円錐の表面に沿って移動しながら回転します。したがって、古代には北極星の場所は他の天体によって占められていました。
何世紀もの間、北極点は氷の障害のためアクセス出来ませんでした。20世紀までは、漠然と存在していました。そして、時には氷の境界を超えたものについての空想的なアイデアさえありました。一部の地理学者は外海があると考えていましたが、グリーンランドに関連している可能性のある巨大な未知の大陸を信じていました。または、未知の人々が住む暖かい土地がそこにあるかもしれないと想像しました。メルカトル図法では、北極点を4つの異なる水域が流れる崖として表示していました。
極緯度に到達しようとする初期の試みには、かなり実用的な目的がありました。つまり、新しい貿易ルートや天然資源、主に金を見つけたり、クジラやアザラシ猟をするためです。ウィリアム・エドワード・パリーに率いられた1827年のイギリス探検隊は、最初の極地探検と見なされています。彼は北極を効率的に移動する方法についてのアイデアを思いつきました。人々によって引きずられるようにそりにボートを置くこと。それは、後にイギリスの探検家によって広く利用されました。
1871年、チャールズ・ホールは北極点に到達しようとして失敗しました。
彼は、極地の氷域内で比較的広く開けた水域の存在を信じていて、バフィン湾を通過して船で北極点に到達することを望みました。探検中に、彼は乗組員の1人、おそらく医者によってヒ素で毒殺されました。
別の悲劇は、アメリカ人探検家ジョージ・W・デロングが率いるジャンネット号の探検に終止符をうちました。 彼は太平洋の暖かい海流の助けを借りてベーリング海峡を通過して北極点に到達することを望んでいました。徐々に、船で北極点に到達することが不可能であることが明らかになりました。しかし、ニューシベリア島からそれほど遠くない場所でのジャネット号の残骸の発見は、フリチョフ・ナンセンに可能な解決策のアイデアを与えました。1884年6月18日、イヌイットはグリーンランドの南西海岸近くの流氷でデロングの探検隊のメンバーに属する品物を見つけました。ジャネット号の難破から3年が過ぎていましたが、その漂流物は北極を横切って7,242km漂流していました。
ナンセンは、フラム号を建造し、北極東部で氷に凍らせて、流氷が彼を北極点に連れて行ってくれるだろう計画しました。同年9月にフラム号は予定通り流氷群につかまり漂流を始めましたが、ナンセンの考えたほど北極点に近づきませんでした。このままいくとフラム号は、北極点に到達しないことが明白となり、1895年3月にナンセンは、士官のヤルマル・ヨハンセンを伴いスキーで北極点を目指すことにしました、船を離れ、スキーと犬ぞりを使って北極点に向けて出発することにしました。しかし、彼らは、フランツ・ヨーゼフ諸島で冬を過ごすことを余儀なくされました。その後、彼らは、フランツ・ヨーゼフ諸島から自宅に戻りました。ナンセンは、自然をライバルではなく友人であると考え、そして、自然の力を使って目標を達成しようとしました。
スウェーデンのエンジニア、サロモン・アウグスト・アンドレーも同様のアプローチを採用しました。彼は気流が、北極の氷の上をはるかに速く運ぶと信じていました。彼は南風が吹くまで待って、水素で満たされた気球でスヴァールバル諸島を出発しました。世界と通信するために、伝書鳩と彼は海に投げ込んだと記されたブイを使うつもりでした。以来、それから33年間、アンドレーと彼の仲間に何が起こったかについては何もわかりませんでした。しかし、1930年に3人の気球飛行士の遺体がスヴァールバル諸島のクヴィトーヤ(クヴィト島)で発見されました。
20世紀初頭、多くの国の探検家達が北極点到達競争を繰り広げました。一度に2人の探検家が、北極点に到達したと主張しました。彼らはアメリカの探検家フレデリック・クック(1908年)とロバート・ピアリー(1909年)でした。彼らの間には激しい闘争がありました。それぞれがお互いを傷つけ、勝者であることを証明しようとしていました。 しかし、探検隊を組織する間、ピアリーは影響力のある実業家と彼を後援したメディア代表のサポートに頼りました。その結果、論争は、何十年もの間、北極点に到達したと見なされていたピアリーを支持して、国民の目で解決されました。実際には、どちらかが北極点に到達したか、証明する方法はありませんでした。したがって、どちらか一方を信じる強い理由がないため、私たちは彼ら自身の言葉に頼ることしかできませんでした。
1914年、ジョージ・ヤコヴレヴィチ・セドフ(ゲオルギー・ヤコヴレヴィチ・セドフ)は、北極点到達を試みました。彼と2人の船員は、フランツ・ヨーゼフ諸島を離れ、犬ぞりで北極点に向かいました。しかし途中、セドフは壊血病で亡くなり、船員たちはフランツ・ヨーゼフ諸島に停泊していた船に戻りました。「スキーと犬ぞり」を利用する時代は、ピアリーとクックの後で終わりを告げました。
その時点で、探検家はイヌイット法ではなく、文明の最新の成果を利用する傾向がありました。1926年にアメリカの探検家リチャード・バードは、飛行機で北極点の上空を飛行したと報告しました。彼の功績は、不完全な航法援助のためにも疑わしいものでした。バードの報告から3日後、アムンセン探検隊は、飛行船ノルゲ号で北極点に到達しました。これは、北極点到達が初めて公式に確認されたものでした。しかし、アムンセンは北極点で着陸せず、アラスカに到着するまで飛行を続けました。
1937年に4機のソビエト航空機が北極点から数十キロ圏内の氷上に着陸しました。彼らは機器を設置し、そして、世界初の流氷上の研究基地セヴェルニー・ポリウス-1の研究者(乗組員)となりました。ソ連は、この探検にかなりの政治的重要性を持っていて、最初の社会主義国家の技術的能力を実証しなければなりませんでした。さらに、フラム号の時代以来、北極海中央部での科学的研究が行われていなかったため、イワン・パパーニン(Ivan Dmitrievich Papanin)が率いる4人の探検家は、貴重な科学的結果を得る事ができました。流氷上の基地は、9か月間漂流した後、グリーンランド海で撤去されました。
1931年、オーストラリアの探検家であるヒューバート・ウィルキンスは、退役した潜水艦で北極点の氷の下に到達しようとしましたが、彼の探検は、失敗に終わりました。
アメリカ初の原子力潜水艦、ノーチラス号(ヒューバート・ウィルキンスが名付けたと同じ名前)は、1958年に北極点の氷の下に到達しました。1年後、スケート級の原子力潜水艦が、北極点の氷を突破して開氷面に浮上しました。
1977年、ソビエトの原子力砕氷船アルクティカは、北極海氷の海を航行し、北極点に到達しました。これは、北極点へ到達した初の水上艦でした。
2007年8月2日、2人のロシア人を乗せたミール (深海探査艇)は、北極点の海底、深度4,261mに史上初めて到達しました。アルトゥール・チリンガロフは、探検のリーダーでした。
現在、北極点への砕氷船の到着は珍しいことではありません。北緯90度(北極点)には、ロシア、アメリカ、カナダ、スウェーデン、ドイツなどさまざまな国の砕氷船が訪れています。北極点は人気のある観光地にもなっています。2013年7月、ポセイドン・エクスペディションズが運営する原子力砕氷船「50イヤーズ・オブ・ヴィクトリー号」に乗船した観光客は、砕氷船の歴史的航海で100回目の北極点到達を記録しました。北極点へは、砕氷船に乗船するだけでなく、飛行機でも行くことができます。2002年以降、毎年ロシアのフライ・イン・ツーリスト・ステーション「バルネオ・キャンプ」は北極点からそう遠くない氷上に建設されています。
(北極旅行/ポセイドン北極読本9-3)