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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

歴史

歴史(HISTORY)

 

エイラロッジ(ベル島)

 

1872年、ドイツの有名な地質学者であるアウグスト・ピーターマンの主導で、オーストリア・ハンガリー帝国の極地探検隊が組織され、カール・ヴァイプレヒトとユリウス・フォン・パイアーが探検隊を率いました。万国の熱意は、北極へ向けられ、19世紀最後の数年の特徴でもあります。

 

新しい土地の探索や緯度を越える記録達成は、探検家や一旗揚げようとする者たちだけでなく、各国が参加する一種のコンテストになりました。ヨーロッパの主要な国家であることを主張するオーストリア・ハンガリー帝国も、これに関与しないままでいることが出来ませんでした。ピーターマンは、同世代の人たちと同様に、開かれた極地の海の存在を信じ、極緯度に到達する最も簡単な方法は、スヴァールバル諸島やノヴァヤゼムリャを通過することだと考えていました。彼は、メキシコ湾流の影響が最大だと意見しています。そして探検のために、テゲトフ号と言う名の小さな汽船が造られました。この探検の目的は、ノヴァヤゼムリャの北を通過し、ベーリング海峡へ行き、可能であれば通過する事でした。しかし、船がノヴァヤゼムリャ近くで流氷に閉じ込められ、北へと流され始め、探検開始は失敗となりました。氷盤がすぐに離れると信じられていたので、最初はこの問題に注意が払われませんでしたが、船は決して外洋に入ることができませんでした。彼らが130日間漂流した後、結局、ノヴァヤゼムリャの北にある奇妙な領域に行き着いた船員たちは、やっと崖の輪郭を見ました。そしてカール・ヴァイプレヒトとユリウス・フォン・パイアーは、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916年)に敬意を表し、発見した土地にその名を付けました。ヴァイプレヒトとパイアーは「そりの旅」をし、群島の北端まで達し、海岸の一部の地図を描きました。そこに存在しないピーターマン・ランドも描かれています。

 

その後、1880年と1881年にイギリスの探検家ベンジャミン・リー・スミスとフレデリック・ジョージ・ジャクソンによって群島が徹底的に探索されました。フレデリック・ジョージ・ジャクソンは1894~1897年まで3年間群島で過ごしました。そして驚くべき偶然が、この探検を有名にしました。1896年7月17日、人間が数回しか訪れていなかったこの北極の無人島にあるフローラ岬で、ジャンクソンはボサボサの髪の毛と髭を生やし、ぼろ布をまとった見知らぬ白人と出会いました。それはなんと、ヤルマル・ヨハンセンと一緒にフラム号を離れ1年以上経過していたナンセンでした。ナンセンは、この奇跡的な出会いが無ければ、家に帰る機会は、ほとんどなかったでしょう。

 

ナンセン・ヨハンセン記念碑
(ノルウェー岬/ジャクソン島)

 

オーストリア・ハンガリー帝国の探検隊メンバーと2人のイギリス人探検家スミスとジャクソンの努力のおかげで、島の一般的な地理の概説がされました。そして、フランツ・ヨーゼンフ諸島は、探検家たちの北極点への出発地点として考えられるようになりました。1898年、アブルッツィ公爵率いる探検隊がルドルフ島へ到達しました。1900年には、そこからウンベルト・カーニが北へとそりでの探検を始め、ナンセンによる緯度の記録を破ります。しかし、彼らは探検中に3人のメンバーを亡くす高い代償を払う事になりました。

 

1913年と1914年、ゲオルギー・セドフ率いるロシア極地探検隊は、フッカー島のチハヤ湾で越冬しました。セドフの冒険は、多くの点でアブルッツィ公爵が行ったことと共通していましたが、唯一違うのが前探検より、装備品が悪かったことです。春になり、セドフは2人の船員と北極点を目指し、犬ぞりで出発しました。しかし、旅を始めた頃、セドフはすでに重病を患っており、群島の領域内で亡くなりました。船員たちは、拠点としていたセイント・フォカ号に戻った後、故郷のアルハンゲリスクへ向けて出発することにしました。ずっと前から燃料切れとなっていた彼らは、フローラ岬に到着し、ジャクソン探検隊が残した建物を薪として使用するために解体しました。そこは、ジャクソンが18年前にナンセンを奇跡的に救出したと同じ場所です。そして、また別の奇跡の出会いが起こりました。なんとセイント・アンナ号で乗っていたロシア極地探検隊の唯一の生き残りメンバー、航海士のヴァレリアン・アルバノフと乗組員のアレクサンダー・コンラッドと出会い、彼らをセイント・フォカ号に乗せることになりました。

 

1914年、イスハーク・イスリャモフの指揮の下、ロシア船ゲルタ号がセドフの失われた探検を見つけることを目的にフランツ・ヨーゼフ諸島を訪れました。(ゲルタ号とセイント・フォカ号は、共にもう少しの所で逃しててしまいます。)この時、第一次世界大戦がすでに始まっていました。ロシアは、オーストリア・ハンガリー帝国と対立していたので、イスリャモフは、オーストラリア人によって発見され、オーストリア皇帝にちなんで名付けられていた群島をロシアの領土と宣言し、ここでロシア国旗を掲げました。

 

砕氷船クラシン号は、1928年に飛行船イタリア号の救助の任務中にフランツ・ヨーゼフ諸島を訪れたロシア初の船でした。行方不明となった飛行船の探検隊は、ここにいると予測されていました。群島には赤い旗が掲げられ、1年後に別のソ連の探検隊がフランツ・ヨーゼフ諸島を訪れ、この時に旗揚げの様子が撮影されました。探検隊のリーダーは、オットー・シュミットでした。最も重要な事に、極地基地が建設され、越冬隊がここに残りました。しかし1930年にノルウェーの調査船ブラッヴォグがソビエト当局の許可を求めず群島を訪れました。ソ連は迅速に群島を調査していたため、ノルウェー人は断念しました。

 

1931年、非常に珍しい探検隊が新たに群島へ辿り着きました。それは、北極への最初の観光旅行で訪れた耐氷汽船マリギンでした。乗客の中には、作家のソコロフ・ミキトフやイタリアの将軍ウンベルト・ノビレ、アメリカ人旅行者ルイーズ・ボイドなどの著名人がいました。ここフランツ・ヨーゼフ諸島で、マリギンとドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリンが落ち合い、北極上空の飛行がされました。

 

1936年、ソビエト基地が群島の最北端にあるルドロフ島に建設され、1937年5月に北極点へ向けて4機の飛行機が出発しました。

 

1950年代には、フランツ・ヨーゼフ諸島も他の北極の群島と同じように、軍隊の拠点となりました。グレエムベル島には、大型飛行機を受け入れることが出来る滑走路があります。何十万もの空樽や自然環境を危険にさらす石油製タンクは、群島の軍事的過去を思い出させます。

 

セイウチ

 

(北極旅行/ポセイドン北極読本8-1)