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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

サー・アーネスト・シャクルトン

サー・アーネスト・シャクルトン / Sir Ernest Shackleton
(1874年2月15日 – 1922年1月5日)
 
ニムロド探検(Nimrod Expedition)

 

アーネスト・シャクルトンは、ニムロド号で最初の南極探検率いた。ニムロド探検の目的の一つは、南極点に到達する事でした。南極点への挑戦は、今回が2回目であった。1回目は、1902年のディスカバリー探検でロバート・スコットと一緒であった。その際、南極点から770キロ―トル以内の所まで行っていました。今回、距離は減少したが、南極点は、シャクルトンを逃れようとしていました。

もともとヨークシャー家だったシャクルトンは、アーネストが1874年2月15日に生まれたアイルランドのキルデア州に引っ越しました。彼の父は、医学の分野に進む事を望んでいました。けれどアーネストには、別の考えがありました。16歳の時、彼は、リバプールを出航した最初の船に乗りました。彼は、自然に洋上での生活に慣れ、階級も昇進しました。

 

彼が、24歳になる頃には、どこでもイギリス船の指揮をする資格を持っていました。1900年の夏、シャクルトンは、ロバート・ファルコン・スコットが手配を進めていた王立地理学協会による第1回南極探検(ディスカバリー号の探検)に志願しました。彼は、船倉、貯蔵、食料品供給および深海水分析を担当する三等兵に選ばれました。彼は1901年、ディスカバリー探検に出発しました。

 

この航海は、シャクルトンにとって成功ではありませんでした。彼は壊血病になり、南極に残りたいと思ったが、救援船で計画よりも早く連れ戻されました。シャクルトンは1907年に、最初に選ばれた船でないニムロド号で南極に出発する探検のリーダーに選ばれました。南極探検の多くは予算が決まりました。ニムロド号は、1907年8月7日に最初にニュージーランドに向けて出航しました。

 

ニュージーランドからニムロド号は、使用する石炭を節約するために、別の船、コーンヤ号に、南極圏まで曳航して貰いました。船がパックアイスに遭遇すると速度がはやくなりました。オーストラリアの地質学者のダグラス・モーソンは、探検とそれに続く南磁極の旅の同行する事になっていました。

 

1908年1月14日、初めて氷山が目撃され、その後、直ぐにコーンヤ号からの引き綱が切られ、ニムロド号の動力で海氷の中を南に向けて航海しました。上陸予定場所であったクジラ湾は、多くの流氷と氷山で囲まれているためニムロド号は、マクマードサウンドに入りました。ニムロド号は、ロイズ岬の小屋が建っている海氷の端約25kmに停泊して荷下ろしの準備を始めました。しかし、ハットポイントに向かって氷が割れるため、荷下ろし作業は遅れました。2月3日までに、氷は、ロイズ岬まで後退したため、ニムロド号は氷に横付けされ、荷下ろし作業が行われました。

 

シャクルトンは、輸送用にポニーと南極の状況に特化した自動車を持ち込みました。ポニーは、この旅行には適応できず、1頭は負傷して、射殺しなければなりませんでした。もう一頭も、到着時に射殺されました。また、 一部のポ二-は、火山砂利を食べてロイズ岬で死亡しました。探検の為に連れてきた15頭のポ二―の内、、南極探検に利用出来たのは、たったの4頭だけでした。気温は、一貫して低く-20℃以下でした。ニムロド号から上陸隊が去り、2月22日、ニムロド号は、ニュージーランドに向かいました。

 

氷の割れ目を通して特に海洋の気象と生物学など科学的な調査と観察はすぐに始まりました。 近くのエレバス山(標高4,032m)への最初の登頂で6人のグループが成功しました。基地の隊員は、冬の生活で平凡な家事にのりだしました。可能な限り、気を散らして生きるようにしました。しかし、生活の中での活動が遅くなり、家事は利用可能な時間を埋めました、寒さと風は単純な活動でさえはるかに複雑で時間のかかるものしました。もちろん、性格の異なる人間が狭い空間で一緒に生活すると緊張感がある事は、わかっていました。

 

春が来ると、冬に考案されたソリ隊の計画が実行されました。シャクルトンとジェイムソン・アダムズ、エリック・マーシャル、フランク・ワイルドは南極点に向かいます。

 

エッジワース・デービッド(当時50歳)が率いるもう1つのパーティは、アリステア・マッケイとダグラス・モーソン とともに、南磁極に到達するために出発しました。それ自体は2,025 kmの旅です。

 

この後者のパーティは、南極探検の経験がまったくなく、犬やポニーの助けもありませんでした。しかし、彼らは探検にモーターカーを持って行き、冬の基地から16.09kmと24.14kmの2つの地点にデポを設置するために使用しました。しかし、皮肉なことに、車はオーバーヒートし、男たちは車が走る前に再び冷えるまで寒さの中で待たなければなりませんでした。彼らは1908年9月25日に出発し、すぐに食料がなくなり、11月初旬までに厳密に配給しなければならなくなりました。隊員の各々は、災害との遭遇から南極の教訓を直ぐに学びました。そして、ソリは、常に存在するクレバスに落ちました。

 

雪盲、日焼け、凍傷により旅行はさらに困難になりましたが、1909年1月15日までに南磁極に到達しました。写真撮影をし、イギリス国旗が掲揚されました。帰りの旅で、設置していたデポに辿り着き、時間通りにニムロド号に信号を送るには、1月17日から2月5日まで、彼らは、1日に27kmを走破しなければなりませんでした。2月5日、ニムロド号が銃で合図しているのが聞こえたとき、彼らはデポから1.6km以内でした。

その日の午後には、彼らは船に乗っていて、お茶や食べ物、9月以来の最初のお風呂をとり、のんびりと過ごしていました。エッジワース・デービッドは、犬がいたら2,025kmの道のりを半分の時間で走破する事が出来たと感じていました。

 

1908年10月29日、晴、シャクルトン率いる「偉大な南への旅」が開始されました。南極大陸を直接体験したことがある人だけが、南極の春の晴れた日に、旅に出かけることで得られる爽快感と興奮を味わうことができました。

 

彼らはこの旅にポニーを連れて行きましたが、ポニーは弱く、多くの問題を引き起こしました。南極での外出、初日、アダムスは膝の下を蹴られ、骨が露出してしまいました。配給は非常に少なく、隊員はすぐに空腹になりました。11月21日、最も弱ったポニーは射殺され、肉の一部は食べられ、残りは、貯蔵しました。11月26日、彼らは、1902年にロバート・スコットが到達した最南端を通過しました。その後、さらに2匹のポニーが射殺され、食料の制限を一部解除しました。隊員は、ポニー用のトウモロコシを食べました。

 

クリスマスは、ささやかな御馳走で祝いました。:プラムプディング、ブランデー、葉巻、スプーン1杯のクレーム・ド・マント。12月27日までに、パーティーは、標高3,100mの南極高原にいて、向かい風の中、食料不足に苦しみ、手足は、凍傷にかかっていました。シャクルトンは、状況が悪化している事に気付き、配給と身体の状態に照らして限られた時間しかないことを知っていました。彼らは猛吹雪の中、南に進みました。ブリザートは、時々、寝袋に入り込んできました。

 

1月9日、彼らは、南極点からちょうど156kmしか離れていない南緯88°23’に到達し、最南端到達記録を更新しました。そこに国旗を立てて、写真撮影をした後、南極点到達を諦め、マクマード湾に向けて出発しました。帰路、彼らが苦労した向かい風は、追い風となり、ソリの上に帆を載せ、氷を横切り、1日当たり47kmを走破する事ができました。彼らは、ポニーの肉を含めて、往路、貯蔵していたデポから食料を得ることができたので、最初の週とは対照的に、十分な食事をとる事が出来、比較的満足でした。彼らは、ハット・ポイントに辿り着き、ニムロド号は、近くに避難しているというメモを見つけました。ニムロド号を呼び寄せる合図を送るために、スコットのディスカバリー探検のマグネチック小屋を燃やしました。

 

彼らは直ぐにニムロド号に安全に乗船しました。彼らの走行距離は、2,700km以上でした。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-7)