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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

テラノバ探検1910-1913年(イギリスの南極探検)

テラノバ探検1910-1913年(イギリスの南極探検)
British Antarctic (Terra Nova) Expedition 1910-1913

 

王立地理学会の希望を表明したテラノバ探検の主要目的は科学的実験、観察と標本採集であり、第2の目標は地理的南極点に到達する事でした。

 

テラノバ探検は、ディスカバリー探検と異なり、王立地理学会と王立協会は、担当していませんでした。

 

スコットは、探検の目論見書で、目標は、「南極点に到達し、大英帝国にこの功績を称えること」と述べました。スコットが、科学的プログラムの妥協を拒否し、この明確な発表によって南極点レースへの興味はやや失せました。

マーカムの観察では、「スコットは、南極点マニアに噛まれた」と後で述べています。スコットは、彼のディスカバリー探検での記録が示すように、科学的研究を真剣に受け止めましたが、今回は、これまでにない最大かつ最も効率的な科学スタッフがいました。イギリスのスコットは、この2番目の探険で優先順位は、南極点に最初に到達する事を明らかにしました。

 

キャプテンの肩書を持つスコットは、1910年10月にメルボルンでアムンセンの電報を受け取るまで、南極点レースに参加する事をもちろん知りませんでした。その前に彼は、合同委員会の制限なしに、彼自身の好みに応じて探検を作る事に着手していました。彼が下した決定では、氷の上の探検旅行の手段について犬に対する偏見は消えていませんでした。それらは、馬とモーター橇、多くの人間による運搬など複雑な輸送戦略を単なる1つの要素に考えていました。スコットは、馬について何も知らなかったのですが、馬はシャクルトンに仕えていたように感じたので、馬を使うようにしました。

 

スコットは、犬の専門家、セシル・ミアーズに、犬の購入のためシベリアに行き、そして、シベリアにいる間に、満州ポニーを購入をするよう命じました。ミアーズは、経験豊富な馬のディーラーではなく、彼が選んだポニーはほとんど品質が悪く、長期間の南極での作業には不向きでした。

 

一方、スコットはフランスとノルウェーで時間を過ごし、「エンジン付きのそり」をテストし、シャクルトンの探検隊からバーナード・デイをエンジンの専門家として採用しました。

 

探検自体は、最初のシーズンの仕事を妨げ、主要な南極での行進の準備に障害をおこすなど一連の初期の不幸に見舞われました。ニュージーランドから南極へ向かう途中、テラノバ号は、他の船が経験したよりもはるかに長い20日間パックアイスに閉じ込められてしまいました。そのため、シーズン後半の到着で作業時間が短縮される事を意味しました。

 

「エンジン付きのそり」の1つは、船からの積み下ろし作業中に、海に落とし、消失してしまいました。悪化する気象条件に順応できない弱いポニーは、主要なデポ設置の旅で最初のデポ設置に影響を与えました。1トンのデポは、計画された南緯80度の北55kmの位置に設置されましたが、この旅行中に6頭のポニーが死んでしまいました。探検隊は、また、クジラ湾で多くの犬を連れてきて、キャンプを行っているアムンセンの存在を知りました。これらの苦難にもかかわらず、スコットは、アムンセンの脅威に対処するため、スケジュールを修正することを拒否しました。アムンセンの基地が南極点に近いこととそりドライバーとしての彼の経験が手ごわいことを認めながら、スコットは、シャクルトンによって開拓されたルートを旅する利点がありました。

 

1911年の冬の間、「私達は、経験が出来る限り完璧に近いと確信してる」と冬の旅行からクロージア岬隊に帰還後、彼の自信は、記録の範囲まで増加しました。1911年、ロス島のエヴァンス岬でメインパーティが結成されました。テラノバ号には、ヴィクター・キャンベル中尉が率いる6人の隊員をノース・ヴィクトリアランドのアデア岬に残しました。

 

ここでは、彼らが越冬するプレハブの小屋を建てました。翌年の夏、隊員達は、南のテラノバ湾に向かい、地質の調査と測量を行いました。

しかし、厳しい流氷の為、隊員を集める事ができず、緊急避難用に氷に洞窟を掘らなければなりませんでした。

そして、ここで彼らが海岸をそりで南下し、エヴァンス岬に戻るまでに200日を費やしました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-4‐4‐2)