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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

ディスカバリー探検1901-1904(イギリスの南極探検)

ディスカバリー探検1901-1904(イギリスの南極探検)
British National Antarctic(Discovery)Expedition 1901-1904

 

ディスカバリー号との関連まで公式に知られていたイギリス国立南極探検隊は王立地理学会と王立協会と合同事業でした。それは探検隊の船委員会のメンバーであるアルバート・ヘイスティングス・マーカム提督の長く切望していた夢で、海軍の指揮下で実現するために、かなりのスキルと狡猾さを兼ね備えた海軍のスタッフでの展開を必要としました。

 

探検家、地理学者、海軍将校である不屈のいとこクレメンス(後の卿)、ロバート・マーカムも委員会のメンバーであり、スコットを探検隊の隊長に任命することを推薦しました。

 

マーカムにとってスコットを隊長とする最初の選択ではなかったかもしれませんが、スコットにする事を決めたので、マーカムの支持に変更はありませんでした。スコットの責任の範囲を巡り委員会での攻防があり、王立協会はスコットが単に船を指揮する間、科学者を探検の責任者にするように迫っていました。しかし結局、マーカムの見方が優勢になったのです。

 

スコットは、ディスカバリー探検隊が1901年7月31日に南極に向けて出航する前に、司令官に昇進しました。50人の屈強な探検隊の中で、南極及び北極での経験が全くないにも関わらず、船が出航する前に、機器や技術に関する特別な訓練は、殆どありませんでした。犬もスキー同様に連れて行きましたが、犬の扱い方を知る人はほとんどいませんでした。マーカムの見解では、プロフェッショナリズムは賞賛に値しないと見なされ、「無理のない適性」よりもスコットは、マーカムの信念の影響を受けた可能性があります。ディスカバリー号が氷の中で過ごした最初の2年は、探検隊がなじみのない地形に対応するのに苦労しました。

 

探検は、南極点への探求ではありませんでした。しかし、南への長い行軍が主な目的でした。スコット、シャクルトン、エドワード・ウィルソンによって行われたこの行進で、彼らは、南極点から約800 kmの南緯82°17’まで到達できましたが、この行進で、シャクルトンの壊血病がひどくなり、肉体的な試練が続き、シャクルトンは、探検途中、補給船で帰国する事になりました。

 

2年目は、技術や成果が向上し、スコットの「西部の旅(西部山地の登攀とヴィクトリアランド内陸の探検)」で、南極高原の発見につながり、最高潮に達しました。ある作家によって「極地の歴史で最大級に偉大な旅」と表現されました。探検の科学的結果には、ドライバレーや南極高原、コウテイペンギンの営巣地の発見など生物学的、動物学的、地質学的に重要な発見が含まれていました。しかし、気象および磁気の測定値の一部は、後に素人的で不正確であると批判されました。

 

探検の終わりには、ディスカバリー号を海氷から開放するのに2艘の救援船と爆弾の使用が必要と思われていました。海軍本部は、船が氷から解放されなかった場合には、放棄せざるを得ないとも述べていました。結局、(爆薬や氷ののこぎりを使うのまでもなく)天候が、2年間、氷に閉じこめられていたディスカバリー号を流氷から解放する事ができました。

 

スコットは、順調に帰還できたことに満足し、努力した多くの成果を示す事が出来ました。スコットは、探検の開始時の素朴さとは対照的に、今では、ベテランの南極探検家でしたが、先入観については何も変わっていませんでした。

 

彼は、犬やスキーが効率的な氷の旅の鍵であるとは確信を持てず、イギリスの運搬の好み(人力でそりの推進)を賞賛し続けました。王立海軍の手続きに関する彼の主張は、探検の商船隊のメンバーとの不安な関係を生みました。そのほとんどは、1903年3月に最初の補給船で出発生しました。スコットとディスカバリー号の三等航海士で、後に彼のライバルとなるアーネスト・シャクルトンとの問題は、憶測によりさらに複雑になっていきました。

 

1903年1月にシャクルトンの肉体的病気が原因ではなく、スコット側の個人的な敵意のため、シャクルトンが補給船でイギリスに戻されたという主張は、スコットの副司令官であったアルバート・アーミテージが主な原因であったと思われます。後に、スコットとシャクルトンの間には緊張が生じ、極地に対する野望が衝突しましたが、お互いに礼節を守り通しました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極10-4‐4‐1)