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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

歴史

歴史(HISTORY)

 

チャタム諸島の最初の人間の居住は、島々に定住したポリネシア部族の移住に伴っており、彼らが独立しモリオリ人となりました。これらの人々の正確な起源は、いくつか論争の問題になっています。島のモリオリ人口は約2,000人でした。彼らの農業資源は寒いチャタム諸島には、適さなかったので、彼らは狩猟採集民として、海や植物から食べ物を取り、生活していました。彼らの新しい環境は、長い航海のための船を建造する資源を奪いましたが、彼らの知性と忍耐力は、独創的な船の発明を見出しました。

モリオリ人は、亜麻と昆布で作った空気袋を並べた半潜水型の船、ワカコラリを作りました。この船は、野鳥観察の任務で外の島々を旅するために使用されました。モリオリの社会は、何世代にもわたる戦争の後、平和になり、ヌヌク首長により、流血の交戦は、非合法化されました。争論は交戦ではなく、議論の一致または、個々の決闘により解決していました。しかし、流血の兆候がでると、決闘は終わらされました。

 

「チャタム諸島」という名前はバンクーバー遠征のHMSチャタム号の船からつけられています。そのウィリアム・R・ブロートン船長は1791年11月29日に上陸し、イギリスの領有権を主張し、イギリス海軍の政治長にちなんで島を命名しました。彼の親戚のトーマス・ピットもバンクーバー遠征のメンバーでした。アザラシ猟師と捕鯨者はまもなく周辺の海で狩猟を始め、島々を基地にしました。先住民の10~20%が、外国人によって持ち込まれた病気で死亡したと推定されています。漁業は主な経済活動として残りましたが、アザラシ猟と捕鯨業は1861年頃に活動停止となりました。

 

1835年11月19日、銃、こん棒、斧などを武装した500人のマオリ人を乗せたイギリスの船が到着しました。さらに1835年12月5日には、400人のマオリ人が乗った別の船が続いて到着。

 

彼らは、モリオリ人を虐殺し、生存者を奴隷にしました。モリオリの生存者はこう言いました。

「マオリは羊のように私たちを殺し始めました。。。私たちは、恐怖に陥り、茂みや地下の穴や敵から逃れるために、どこにでも身を隠しました。しかし、それは役に立たず、発見された私たちは、男、女、子供関係なく無差別に殺害されました。」

 

侵略者であるマオリは、正当化し彼らの行動をこう言いました。

「私たちは、我々の習慣にしたがって、領土を取った。。。そして私たちは、ずべての人々を捕らえ、誰も逃がさなかった。。。」

 

侵攻後、モリオリ人は、モリオリ人同士との結婚も、子供を持つことも禁じられました。全ての人が、侵略者ンガティ・タマとンガティ・ムトゥンガの奴隷となりました。多くの人は、絶望で亡くなり、多くのモリオリの女性は、マオリの主人の子供を授かりました。少数のモリオリの女性は、最終的にマオリまたは、ヨーロッパ人の男性と結婚しました。中には、チャタム諸島から連れ去られ、二度と戻らなかった者もいました。

 

1843年、ドイツ人のルター派宣教師の男性の団体が到着しました。3年後、彼らに加わるために女性のグループが送り出されました。その際、いくつかの結婚が続き、現在の人口の多くは、宣教師の家族へと祖先をたどることができます。

 

モリオリの数は、101人まで減りました。最終的にマオリ人のほとんどは、1870年までにチャタム諸島を離れました。ソロモンの祖父であり、ラウル族の首長は、彼らの侵略の間、モリオリ人は平和主義者であることを確信しました。トミー・ソロモンと知られる、最後の純血のモリオリ人であるタミー・ホロモナ・レーエ・ソロモンは、1933年に亡くなりました。

 

チャタム諸島は太平洋で人々が定住した最後の島でした。現在の居住者は、モリオリ、マオリ、ヨーロッパ人の子孫であり、その独特の文化は、多くの重要な考古学的遺跡や史跡に残っています。様々な聖地や埋葬地だけでなく、捕鯨や農業に関連するヨーロッパ人の入植地の跡も残っています。モリオリ占領の証拠に、国際的に重要なモリオリの木彫り(ラカウモモリ)が含まれる、J. M. バーカー(ハププ)国立歴史保護区となっています。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極7-2)