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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

難破船

難破船(SHIPWRECKS)

 

1833年 – 未確認難破船(Unidentified Wreck)

オークランド島のノースウェストケープ付近で発見された残骸はおそらく1隻または2隻の大型船がそこで難破したことを証明していました。残骸は島に駐留していたキャロラインのアザラシ猟師グループによって発見されました。

一部ではライフルマン号だと考える人もいました。その名前の船は1825年に羊毛を積んでホバートを出航し、その商品は船の残骸の中から発見されました。しかし、残骸が遅くても1833年になって引き揚げられる可能性は非常に低いようです。
 
 
1864年1月3日 – グラフトン号(The Grafton)

グラフトン号は調査旅行のため、シドニーからキャンベル島に向けて航海ししていました。調査に失敗したため、数頭のアザラシを捕獲できることを期待してオークランド諸島を経由しシドニーに戻ることにしました。彼らは1863年12月31日にカーンリー・ハーバーに停泊しましたが、不運にも全く遮るものがなく、露出した場所でした。

 

2日間続いた強風によってアンカーロープは引き離され、船は岩場の海岸に追いやられましたが5人全員が無事に岸に着くことができました。嵐がおさまった後、大破した船の中から大量の装備と食べ物を確保することができました。彼らはエピグワットと呼ばれた場所で19ヶ月間滞在している間、生き残るために食料と薪を集めることにエネルギーのほとんどを費やしました。助かるためには自分たち自身で行動しなければならないことが明らかになりました。そこで彼らは船の小艇を改造して大きいボートを建造し、3人の男性がニュージーランドに向けて出発しました。5日間、彼らは高波と風と戦いましたが、6日目の朝にスチュワート島のポートアドベンチャーに到着しました。嘆願に回りフライングスカッド号を運航するための十分な資金を確保することができ、オークランド諸島に残っていた2人のメンバーを迎えに行くことができました。
 
 
1864年5月10日 – インバーコールド号(The Invercauld)

インバーコールド号は、メルボルンから空荷でカヤオへ向かう途中、オークランド諸島の北西付近で座礁してしまいました。当時の天気は非常に荒れていて乗組員のうち6人は溺死しましたが19人の士官と乗組員が海岸に到着しました。1865年5月20日に3人の生存者が救出されましたが、残りは救出前に全員死亡しました。生存者は植物の根やカサ貝類以外は、ほとんど食べ物がありませんでした。幸いにも水は十分に確保することができたので、わずかな食物で数ヶ月間を維持することができました。彼らが利用した唯一の避難所は、難破船から集めた木材の破片で作った粗末な小屋でした。スチュワードの一人がマッチ箱を保管していたため、彼らはそれで火をつけることができました。

 

グループを分けて5人が隣の湾に向かうと、人間が住んでいた痕跡を発見しました。グループのほとんどは飢餓で死にかけていたので、彼らはここでいかだを作り食料集めに集中しました。事故から3ヶ月が経った1865年8月末までに漂流者19人のうち3人だけが生き残りました。3人はその後、ボートを作りエンダービー島に向かいました。ここでは、十分な食事ができ、可能な限り快適に過ごせるような小屋を建てたので、彼らは非常によく暮らすことができました。1865年5月20日に船が難破してから1年10日後に、彼らはペルーの船ジュリアン号に救出されマカオからの中国の移民と一緒にカヤオへ向かいました。
 
 
1866年5月14日 – ジェネラルグラント号(General Grant)

難破したジェネラルグラント号に乗っていた61人の乗客と22人の乗組員のうち、わずか15人が岸にたどりつきました。そのうち4人は救助を求めボートで懸命にニュージーランドへ向かいましたが命を絶たれました。また、船員の一人は病にかかり短期間で亡くなりました。18ヶ月間の苦難と飢餓の末、1867年11月21日に10名の生存者が救出されました。

 

1866年5月4日、ジェネラルグラント号はロンドンへ向けてメルボルンを出港しました。順調な航海でしたが5月13日の夜、島が前方に横たわっているのが見えました。軽風でしたが海が荒れていたため操舵ができず、午前1時頃に船はそびえ立つ崖に衝突しました。その後、船はゆっくりと約800m後方へ流され、再び衝突し最後には深さ約230mの洞窟の中へ漂流し、メインマストを除くすべてのマストが壊れてしまいました。潮が満ちてくるとメインマストが洞窟の上部に当たり、船を押し下げられました。夜明けにボートを出そうとしましたが、この時には、海は荒れていました。この混沌とした状況の中、15人乗りの2隻の小型ボートだけが打ち寄せる波を無事に乗り越えることができました。この2隻のボートはディスアポイントメント島の風下で2日間待機した後、オークランド島のポートロスに到着しました。彼らはこの場所を改良するために全精力を費やしました。彼らが発見した荒れた小屋は改良され、集めたたくさんのアザラシの皮で衣服を縫うために多くの時間を費やしました。救助の希望は常に心の支えであり、彼らは「メッセンジャー」と呼ばれる粗末に彫った長さ約90cmの模型船にメッセージを刻み、送り出しました。

 

1867年1月、4人の生存者が1隻のボートでニュージーランドに向けて船出しました。羅針盤も海図なく、それは無謀な試みでした。「彼らは未知の海に船出し、未知の海が彼ら連れて行き、彼らは人類から知られることは二度とありませんでした。」

島に残っていた11人のエネルギーは、生きるだけに使われていました。

8月、船員の1人、マクレランが病気で亡くなりました。また、通過する船を呼び寄せる試みに失敗し、残りの10人はエンダービー島に移動することを決意しました。そこは、より良い見張り所を設置することができたのです。ついに1867年11月21日、捕鯨帆船アマースト号がポートロスに入港し、数ヶ月わたった辛苦の生活を終えることができました。

 

ジェネラルグラント号の積荷リストによると2つの箱の中には合計約73kgの金が入っていました。さらに貨物には数トンの亜鉛合金や亜鉛が積まれていましたが、亜鉛合金として記載していたものの、実際にはかなりの部分が金であったと一部の人々は主張していました。ジェネラルグラント号で溺死した人々の中には多数の金鉱山労働者がおり、彼らと共に大量の金を運んでいたと言われています。沈没船から積み荷の金を引き上げるために多くの試みがなされてきました。
 
 
1887年3月20日 – デリーキャッスル号(The Derry Castle)

エンダービー島の北端でデリーキャッスル号が座礁した1887年3月20日の夜は悪天候でした。船はすぐに壊れ、23人の乗組員の中、島によじ登ることができたのはわずか8人でした。生存者たちは島で小さな小屋を見つけましたが、食べ物も火もありませんでした。生存者の1人がポケットの中にあったピストルの弾の弾頭を爆発させることで火をつけることができました。島に滞在してから92日が過ぎた頃、ポートロスの海の向こうに放棄された小屋を見つけ、砂に埋もれていた古い斧を発見しました。これで小舟を作り、2人の男性が放棄された小屋まで無事に漕いで渡り、食料と衣服を手に入れて戻ってきました。数日以内にすべての生存者がポートロスの小屋に住むことができました。彼らはここに滞在し、7月19日、アザラシ猟に来た汽船アワルア号がポートロスに入港した際に助けられました。

 
 

1891年3月19日 – コンパドレ号(Compadre)

1891年1月22日、多くの麻袋を積んだコンパドレ号は、カルカッタからチリに向けて出港しました。3月16日、船長は、船倉で火災が発生した事を発見しました。消化作業は、困難を極め、船倉を密閉して、最寄りのブラフ港へ航路を変更しました。3月19日、オークランド諸島が見えました。ほどなくして、船は巨大な波に襲われ、デッキの移動可能な物はすべて流され、客室も破壊され、密封していた船倉に空気が流れ込み、船は燃え広がり、船が救われる望みも無く、船は座礁してしまいました。全員の乗組員は、なんとか上陸する事ができましたが、船員の1人は、おそらく夜間の冷気にさらされたために死亡しました。彼らはニュージーランド政府が設置した避難小屋を見つけ、6月30日に救出されるまで生き延びました。
 
 
1895年 – ストーンリー号 または、メアリーアリス号(The Stoneleigh or Mary Alice)

1895年10月19日、政府の汽船ヒネモア号はオークランド諸島の航海から戻り、船長はエンダービー島の北東の角で、非常に新しい大型の鉄船が難破していたと報告しました。海岸線には船の残骸が散乱していましたが、その名前を示すものは何も見つかりませんでした。人間の痕跡が見つからなかったので、すべての手段が失われました。それが実際にどの船であったか海運業界で何度か議論をされました。最終的な決定には至りませんでしたが、ストーンリー号またはメアリーアリス号のどちらかである可能性が高いと推測されました。
 
 
1905年2月10日 – アンジュー号(Anjou)

アンジュー号はシドニーからイギリスへ小麦の積み荷を運んでいた際、濃霧の夜にオークランド諸島の険しい西海岸にあるブリストー岬の近くで座礁してしまいました。明け方に救命ボートを下ろし、強い流れに逆らいながら約16kmを漕ぎ続け、すべてのボートがカーンリー・ハーバーに辿り着きました。22人の乗組員は最終的にキャンプコーブの避難小屋に到着し、翌月に政府の汽船ヒネモア号によって救出されました。

 
 

1907年3月6日 – ダンドナルド号(Dundonald)

1907年2月7日、32,700袋の小麦を積んだダンドナルド号は、シドニーを出港してイギリスへ向かいました。悪天候に見舞われ2週間が経ちました。船長は3月6日時点の船の位置をオークランド諸島の北西から約65kmと推定しましたが、これが間違っていて真夜中に船の前方に島が現れました。岸辺を避けようとしましたが失敗し、ダンドナルド号は聳え立つ崖の下の岩に激突しました。この状況下では救命ボートを着水させることができず、このスループ帆船が固定されていたので乗組員は帆網などの索具に登るしかありませんでした。

ようやく長い夜が明けたとき、乗組員28人のうち生存者は19人で、他は夜の間に死んでしまいました。その中には船長と16歳の息子も含まれていました。崖に沿って船の索具にしがみついていた生存者たちは陸に上がると、彼らが難破した場所はディスアポイントメント島だったことがわかりました。

この島から荒れた海を横切って約11km先にオークランド諸島の本島の避難小屋がありました。ディスアポイントメント島はわずか幅2.4km、長さ3kmの小さな島です。船が難破してから1週間半が過ぎた時、仲間のジャブジー・ピーターズが亡くなり島に埋葬されました。後に掘り起こされてオークランド島のエレバス・コーブに埋葬されています。生存者たちは船の残骸から帆だけを回収することができました。幸いなことに船員の1人がロウマッチを11箱持っていたので火をつけることができました。この2つの道具(帆とマッチ)のおかげで男性たちが生存しディスアポイントメント島から脱出を確実にすることができました。

 

ディスアポイントメント島で4ヶ月半が過ぎた頃、大量の木材を見つけ、これと利用可能な帆布でボートを作ることにしました。横断を試みた最初のグループが本島に到着しましたが、奥深い森に挫折し再びディスアポイントメント島に戻ってきました。

 

2回目の試みが行われましたが、オークランド島へ上陸中に彼らが作ったボートは難破してしまいました。彼らは長い陸路の移動が必要な避難小屋を見つける以外の選択肢しかありませんでした。避難小屋を発見してから、彼らの最初の問題はディスアポイントメント島にいる仲間を救出することでした。小型ボート用に帆を作り、ディスアポイントメント島へ行き、健康な生存者を運んで陸路でポートロスまで移動させ、弱っている生存者はボートで移動しました。避難小屋で提供された美味しい食事と快適さで体力は急速に回復しました。ディアポイントメント島を離れてから5週間後、ヒネモア号によって救出されました。

 

(南極旅行/ロス海・亜南極4-2-5)