精力的なエンダービー
精力的なエンダービー(The Vigorous Enderby)
サミュエル・エンダービーの死後、ロンドンに拠点を置く大手捕鯨会社「サミュエル・エンダービー&サンズ」は、チャールズ、ヘンリー、ジョージ・エンダービーから成るエンダービー・ブラザーズ(エンダービー兄弟)として知られるようになりました。チャールズ・エンダービーは王立協会の研究職員でした。オリジナルメンバーの一人で、数年間は王立地理学会の評議員とロンドン・リンネ協会の研究職員でもありました。父親と同様にチャールズ・エンダービーは船長に対し、探検と発見の機会を失わないよう指示していました。捕鯨船の船長は指示されただけでなく、発見を目的に複数回に渡り、船を送り出していました。
1838年頃、イギリスの産業としての捕鯨は衰退し始め、アメリカ人は貿易を独占するようになりました。イギリス人のブレンによれば、何百隻もの捕鯨船を雇っていたアメリカ人と同様にイギリス人はクジラ漁の間は、家を留守にしていました。イギリスは今、鯨油を買わなければならず、イギリスの捕鯨者は必要なものすべてを供給することができませんでした。
1846年、チャールズ・エンダービーはイギリス海運の権益者数名が代表して書いた手紙を受取りました。彼らは捕鯨産業の衰退とその結果としてイギリスが鯨油を外国へ依存することに警戒心を抱いていました。このような問題についてエンダービーほど有能な権力者はいないと信じて、彼らは捕鯨産業を復活させる方法を提案するよう彼に頼みました。エンダービーはこれに応え、イギリス南洋捕鯨漁業の再建に取り組み、成功を収めました。
翌1847年、イギリス国王は、彼らの父親の船長の一人、アブラハム・ブリストーが、オークランド諸島を発見したことを認め、さらに遠い南の地でサポートしていた会社も発見に貢献したことも認められました。エンダービーの目的はオークランド諸島を捕鯨基地にすることでした。理由を記述した小冊子を出版し、入植者へもたらす利点も示しました。
彼の会社に対する信念の証明として、植民地設立の監督に自分自身が行くことを提案しました。「私が植民地へ行きます」と彼は言い「イギリス政府の全面的な支援と毎月1回、軍艦を島へ訪問させるという海軍本部からの保証があれば入植者たちの団体の利益は十分に保護されます」。イギリスや他国への輸送は他の長距離用の船に積み替えればよいため、捕鯨場からオークランド諸島の基地間の運搬船を一般的な高価な大型船ではなく鯨油の運搬に適した船を使用することを提案しました。「隣接する植民地間の運送が目的」であり捕鯨場に船が常駐しているか、または基地へ運搬します。「常に鯨油をイギリスへ運ぶために待機し、常に行く途中で貨物を満載にします」 すでに島は、捕鯨船の修理のために頻繁に利用され、捕鯨シーズンの始まりを待っていました。
二次的に重要なことですが、島の植民地化は、捕鯨基地の設立とともに発展すると予想されていましたが、それは捕鯨基地で必要な作物を生産するために耕作する土地でした。これがチャールズ・エンダービーの計画でした。
全体的にエンダービーの提案は承認されましたが、逆に批判もありました。
ロンドン・タイムズ紙の記者は1848年11月、オークランド諸島を捕鯨基地にすることに強く非難し、オタゴ地方(ニュージーランド)のほうが非常に条件がよいと提案しました。エンダービーは「オークランド諸島の主」と皮肉を込めて呼ばれていました。タイムズ紙はこの書簡について次のように述べました。エンダービー氏は、彼の計画を実行するためオーストラリアとヴァンディーメンズランド(現タスマニア島)、ニュージーランドから施設を提供されていました。そしてそれが選ばれたのはオークランド諸島特有の適応力を信じていたからだけでした。その後の出来事を見ると、チャールズ・エンダービーはオークランド諸島を訪れた重要な人物の意見、特に1840年に3週間滞在したジェームズ・クラーク・ロス卿の意見に影響を受けていたことに注意すべきです。
エンダービーの提案についてロス卿は次のように述べています。「広大な南洋の全範囲において捕鯨基地として必要な要件を完全に満たす場所はありません。」
オークランド諸島計画の最終決定を待つエンダービーはハドソン湾会社の総督ヘンリー・ペリー卿に手紙を送り、バンクーバー島をオークランド諸島からの捕鯨船の支所にしてもらうよう提案しました。この計画が影響を受けた場合、バンクーバー島の植民地化は確実になるでしょう。さらに、イギリスの領土は捕鯨船の訪問により利点を享受します。その一部はインド、中国、日本、及び他の太平洋の地域への取引に使用され、イギリスの商取引が拡大し、この海域でイギリスの利益に結び付ける可能性があります。
エンダービー兄弟はオークランド諸島の認可をイギリス南洋捕鯨会社(British Southern Whale Fishery Company)に譲渡し、チャールズ・エンダービーが島の副知事に任命され、会社は彼を長官に任命しました。1849年の半ばまでに会社設立の手配が完了し、彼がイギリスを出発する前に多くの著名人が出席してエンダービーの名誉を祝う公式夕食会が開かれました。
(南極旅行/ロス海・亜南極4-2-1)