歴史
歴史(HISTORY)
アブラハム・ブリストーは1806年8月18日、この諸島を発見した最初の人物でオークランド卿に因んで名づけられました。海図には実際の位置から誤って56kmずれた位置に記載されていました。これは南洋航海の様々な事実を組み合わせています。航海は非常に芸術的なもので、通常は視界不良と悪天候によって妨げられていたため、多くの船が西海岸の切り立った玄武岩の崖にぶつかってしまいました。ここには帆船インバカウド号など漂流者の悲惨なサバイバルの物語がたくさんあります。乗組員25人のうち19人が海岸に着きましたが、数週間で生き残ったのはたった3人だけで、生き続けるためには人肉(共食い)をも食べなければなりませんでした。船長がカーンリー・ハーバーで嵐を避けるミスを犯し、不運にも港の地形によって風のトンネルのような激しい暴風雨が集中し、グラフトン号は岩だらけのビーチに打ち上げられて大破しました。船が難破する状況が最終的に悪くなっていったので、しばくらの間、年に2回は各島に漂流者がいないか確認が行われていました。
島々が発見されて以来、土地の耕作のためにいくつかの試みが行われましたが不毛な土壌と極端な気象条件のため永久的な入植は不可能になっています。おそらく入植地で最も有名な試みは、南海捕鯨漁業会社(South Seas Whaling and Fishing Company)によって建設されたハードウィック集落(1848年~1852年)でした。広告キャンペーンによりイギリスから200人の開拓者が集まりイギリスの植民地として設立を試みましたが、わずか2年9ヶ月の短命で終わりました。当時のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドと同じ地位の植民地をオークランド諸島に作るために、イギリス議会は入植地の責任者に副知事の称号を与えました。
(南極旅行/ロス海・亜南極4-2)