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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

歴史に彩られたロス海域

歴史に彩られたロス海域 (The Historic Ross Sea Sector)
ロス海は南極の中でも並外れて歴史的意味のある所です。ここは南極探検のいわゆる「英雄時代」に世界的に有名な探険の数々が繰り広げられた場所であるからです。後述の南極探検歴史の章でその詳細をお確かめください。この海域はまた極限の美しさがある所でもあります。

ロス海は、ジェイムズ・クラーク・ロス 船長(後にサーの称号が与えられた)がエレバス号とテラー号を率いて1839年から43年にかけて行った、すぐれた航海の際に発見されたものです。2船はニュージーランドの南に広がる流氷群を通り抜け、現在ロス海と呼ばれている開水域に出ました。海岸沿いには雪で覆われた山々が見え、大きな火山が二つ(そのうちの一つは華々しく活動中でした)、何百何千というクジラやペンギンの大群、そしてさらにそれまで見た事も聞いた事も無い光景を目の当たりにしたのです。 それは高さ60mで延々650㎞も目の前に広がっている氷の壁でした。今ではロス棚氷として知られているものです。ロスの航海日誌に、「我々は名状しがたい喜びに満たされながら、今まで一度も見た事もなく、想像したこともない壮大で堂々とした自然の驚異を見つめ続けた。」と記述しています。

ロス棚氷(Ross Ice Shelf)
南極大陸にある巨大な湾か入江とも言える広大な面積をびっしりと埋め尽くしているのがフランス全土とほぼ同じ大きさのロス棚氷で、文字通り棚状の氷の塊が経度180°線をまたいで広がっています。氷の厚さは北側の400mから南側の1,000mと次第に増えています。棚氷は毎年1㎞程度の割合で海側に向かって押し出されて、先端部分からは定期的に巨大な氷山が分離しています。

ロス海の西部にあって、大陸とはマクマード入江で隔てられているロス島は活火山のエレバス山(3,794m)とそれよりやや低いテラー山が島のほとんどを占めています。1979年11月、ニュージーランド航空の南極遊覧飛行中の旅客機がホワイト・アウト(視界ゼロ)という最悪の気象条件の中でエレバス山腹に墜落し、搭乗者257名全員が死亡するという惨事が起こりました。この事故以後、何年も南極大陸への観光遊覧飛行は実施されませんでしたが、1994年に再開されました。ロス島は南極点への主要三探検隊の出発点であり、4つ目の探検でも重要な役割を果たしました。現在ロス島には南極最大の観測基地であるアメリカのマクマード基地、それにニュージーランドのスコット基地があります。エレバス山には、1908年3月10日にシャクルトンのニムロド号探検の際に登頂しています。

ハット岬(Hut Point)
ロス島南端のハット岬と呼ばれる岬にあるディスカバリー小屋(Hut=小屋)はスコット第一回目(1901~04年)の南極探検のためにオーストラリアから持ち込まれたものです。隊員たちは探険船ディスカバリー号で寝泊りし、この小屋は主として貯蔵室や実験室として使用されました。隊員たちがこの小屋で余興の演劇を上演するときは「ロイヤル・テラー劇場」とも呼ばれました。それから4年後、この小屋はシャクルトン率いる1907~09年の南極探検のソリ用前進基地として利用されました。(探険隊の基地はロイズ岬におかれた)さらに下って1911~13年には第二次スコット南極探検隊(基地はエヴァンス岬)のソリ隊がこの小屋を利用しました。南極の地に命を落としたスコットと4人の仲間の為にこの小屋で大きな慰霊の十字架が作られ、その十字架は今でもオブザベーション・ヒルの頂上に立っています。4度目にこの小屋が使用されたのは1915年で、1914~17年のシャクルトン率いる南極大陸横断遠征でロス海支援隊のソリ隊が使用しました。

ロイズ岬(Cape Royds)
南極大陸の中でも屈指の美しさを誇るロイズ岬はロス島の西側に位置し、シャクルトン率いる1907~09年のニムロド号探検隊の基地が置かれた所です。シャクルトンと3人の隊員たちはこのロイズ岬の小屋を出て南極点の手前180㎞まで行きながら引き返したのです。南極大陸初のモーター輸送車 アロス・ジョンソン車もここに陸揚げされ、1908年にはこの小屋で基地機関誌「南極光Aurora Australis」が出版されました。この小屋は1910~13年にはスコット探険隊、1914~16年にはシャクルトン、ロス海支援隊が訪れています。小屋の前に見えるアデリーペンギンの南限繁殖地は特別保護区に指定されている為、許可証が無ければ訪問は許されません。

エヴァンス岬(Cape Evans)
やはりロス島の西側に位置し、ロイズ岬とハット岬の中間にあるのがエヴァンス岬の探検小屋で、史跡小屋の中で最も有名かつ最大のものです。1910~13年に第二次スコット探検隊が使用した小屋で、この遠征では南極点から戻る途中のスコット、ウィルソン、バウアーズ、オーツ、そしてエヴァンスが命を落としました。1913年にスコット隊生き残りの隊員が引揚げる際、この小屋に大量の食料、資材、そして多少の衣類を残していきました。これが後にシャクルトンの英帝国南極横断探検の際、ロス海支援隊 (1914~17年)10名の隊員の命を救う結果となりました。1915年5月、荷物の陸揚げ作業中にオーロラ号がブリザードに煽られて外洋に流されてしまい、10名の隊員はこの小屋に取り残されてしまったのです。越冬中死亡した3名を除く残りの7名は、1917年になってシャクルトン自身が救助しました。シャクルトンはエレファント島に残された隊員たちを救助した後、ブリザードに流されてニュージーランドにたどり着いていたオーロラ号に乗ってロス海支援隊の救助に向かったのでした。今もオーロラ号の引きちぎられた錨2基が浜辺に残り、付近には食料や燃料として殺したウェッデルアザラシの遺骸が見られます。小屋の中には間に合わせに作った長靴を始め、衣類や工芸品が残されています。この小屋の訪問は悲しい出来事を思い出させるものでもありますが、同時に生涯忘れられない体験となる事でしょう。

アデア岬(Cape Adare)
アデア岬は、ロス海の西側入り口にあたる火山性の岬です。岬の下側に広がるビーチにはノルウェー人のカールステン・ボルヒグレビンク率いる1898~1900年南十字星南極探検隊の探検小屋があります。イギリスの新聞社主 ジョージ・ニューンズが後援をしており、南極大陸初の越冬を試みています。隊員の一人であるノルウェー人生物学者ニコライ・ハンソンが1899年10月14日この場所で死亡し岬の突端に埋葬されましたが、これは南極大陸で最初の墓地となりました。アデア岬は、後にスコット第二回探検隊(1910~13)の北分隊が訪れていますが、この隊は別に小屋を建てました。ボルヒグレビンクの小屋は今でも立っていますが、北分隊のものは強風のため崩壊しています。これらの小屋の周りを南極大陸最大と言われるアデリーペンギンの営巣地が取りまいており、推定28万番(つがい)と数えられます。

マクマード基地(McMurdo Station)
南極大陸最大の観測基地マクマードは米国南極プログラムの兵站業務の中心となっています。基地が位置しているマクマード入江は1841年のジェイムズ・クラーク・ロス 探険隊の中尉アーチボルト・マクマードにちなんで名付けられたものです。マクマード基地は1955年にロス島の最南端近くに、スコット隊のディスカバリー小屋に隣接する形で建設されました。夏期には1,200名を収容し、冬期は180名近くまで減少します。辺境の町とハイテク近代都市を融合した様なこの基地には最新実験設備、修理工場、居住区、オフィス、消防署、発電所、海水脱塩施設、商店、クラブ、コーヒーショップなど100近くの建物が並んでいます。

基地の建物の多くは永久凍土層を痛めつけたりしない様に組み立てられた支柱の上に建てられており、地上に張り巡らされている水道、下水、電話、電線などで連結されています。超大型軍用機が、10月から12月まではマクマード入江の海氷に作られた滑走路を利用しスタッフや緊急物資の輸送のためにニュージーランドのクライストチャーチと基地の間を往復します。それ以後はスキーをつけたC-130輸送機が近くのロス棚氷に作られたスキー滑走路を利用して2月まで運航を続けます。1月になると2~3隻の貨物船がマクマード基地を訪れ燃料、食料、建築資材を始めとする1年分の物資や装備を補給します。マクマード基地はニュージーランド、イタリア、ロシアの各基地のための兵站基地としても利用されています。この地域で観測している分野は海洋・陸生生物学、生物医学、氷河学、気象学、高層大気圏観測などです。また、長期にわたってエレバス火山の観測も行われています。

アムンセン・スコット南極点基地(Amundsen-Scott South Pole Station)
地理学的南極点点にあるアムンセン・スコット基地は、直線で1,350kmほど離れたマクマード基地から空輸と雪上車で物資補給をしています。この基地は1956年に地理学的南極点点の場所を選んで建設され、3代目建物は、2008年2月に使用を開始しました。前2代の建物は、いずれも融けない積雪の為に埋もれてしまいました。夏期には100名以上が駐留していますが、冬期には40名に減ります。夏場にはほぼ毎日飛行機の便がありますが、2月中旬から11月初旬にかけては孤立してしまいます。氷の中に埋められた金属製の支柱が南極点の正確な位置を示しています。但し毎年1月には航法衛星(NAVSAT)の助けを得て正確な位置を測り直します。南極点周辺の氷床が毎年約10mの割合で移動している為です。アムンセン・スコット基地の研究対象には氷河学、地球物理学、気象学、上層大気圏物理学、天文学、生物医学などが含まれます。

スコット基地(Scott Base)
ロス島のスコット基地はマクマード基地からおよそ4㎞の位置にありニュージーランド南極計画(NZAP)の現地本部です。1957年に建設されたこの基地には宿泊施設、作業場、実験室があります。夏期には野外調査隊の支援も行う80名が運営しますが、冬期には15名位に減ります。NZAPは米国南極計画部と密接な協力関係にあり、米国空軍の飛行機と共にニュージーランド空軍機も利用してクライストチャーチ、マクマード基地間の長距離飛行を行っています。スコット基地とマクマード基地の間の丘の上に設置された風力発電機はかなりの電力を供給しています。NZAPは毎年およそ30にのぼるプロジェクトを支援しており、250名ほどのスタッフが関わっています。最近のプロジェクトではゴンドワナ大陸の地質発達史、海氷の性質、魚類、ペンギン、トウゾクカモメ、それに南極の湖に関しての生物学的研究などが含まれています。最近の調査では人間活動が及ぼす影響、生物多様性と生態系、気候プロセス、及び陸上の進化に焦点が当てられています。

2009年から探検小屋などからの人工遺物を扱う保全研究室が開かれました。英連邦南極横断探検隊(1956~57年)に使用された建物で博物館と静かな空間があります。

スコット基地とマクマード基地の中間にはオブザベーション・ヒル(230m)があり、体力のある人であれば頂上まで登る事が出来ます。頂上にはマホガニーゴムの木で作った大きな十字架がありますが、これは1913年にスコット隊の仲間たちが極点からの帰路死亡したスコット以下5名の慰霊のために建てたものです。十字架には極点からの帰途、命を落とした5名の極点隊の名前と共に、詩人テニソンによる「ユリシーズ」という詩の中からの一節が彫られています。「人生を模索せよ。探求せよ。発見せよ。何物にも屈することなく」

ドライバレー(The Dry Valleys)
世界で最も極端な生態系の見本をロス海西岸にあるヴィクトリアランド南部のドライバレーで見る事ができます。ここはマクマード基地からもスコット基地からもヘリコプターで到達出来る距離にあります。主要部だけでも面積約29,000平方㎞にも広がるこの露岩地帯は、1903年にスコットと2人の隊員によってソリ旅行の途中に発見されたものですが、1年中氷も雪も無い文字通り乾燥しきった渓谷です。ここは、ほんのわずかの例外を除いてほとんど生物の存在すらも感じられない所でもあります。スコットの言葉を借りればここは「巨大な氷や大量の水が活動した軌跡はあるが、そのいずれも今は活動していない。」場所でもあります。しかし浸食作用は働いていて、強い風と飛砂に削られて不思議な形になった三稜石が散在しています。

ドライバレーにもいくつかの湖沼がありますが、いずれも一風変わった種類のものです。例えばドンファン池は塩化カルシウムの飽和溶液からなっていて、-51℃でも凍結する事がありません。ここで日本の科学者が水中に新鉱物を発見しましたが、その鉱物の結晶は「アンタークティサイト」と命名され冷蔵保存しておかないと液化してしまう特性を持っています。もうひとつのバンダ湖は水の流出が無く永久に氷で覆われている湖です。氷の下の層は冷たい淡水層ですが、さらにその下には水温25℃の高濃度の塩水が湛えられています。ここには藻、バクテリア、原生生物が棲んでいますが、外から入ってくるのは太陽エネルギーを除いては無く、外界と完全に遮断されている為、湖の内部だけで栄養循環を行う生態系ができています。

ドライバレーで見られるもうひとつの興味深い生活形態は地衣類、菌、藻などの隠花岩石表層繁殖植物群で、これらの隠花植物は文字通り固い石の中で生きています。岩の間の細かい割れ目、そして多孔性の砂岩や花崗岩の結晶の間に潜んでいるのです。これらより高等な動植物は乾燥したドライバレーの土地では生き残る事が出来ません。というのもここでは降水量より蒸発の方が多いからです。面白い事に、海から80km以上も離れたこの地にさまよい入ったらしく、いくつものアザラシやペンギンのミイラ化した死骸が何千年もそのままに残っています。スコット自身もウェッデルアザラシの骸骨を見つけています。どうやってここに来たのかは推測しようもありません。ここは正に死の谷そのものです。ドライバレーの懸垂(けんすい)氷河、雄大な山脈、そして特異な自然環境は一生に一度は訪れてみたい場所です。この地域一帯がこの世のものとも思えない美しさに溢れています。

コモンウェルス湾(Commonwealth Bay)
コモンウェルス湾のオーストラリア地区(およそ東経142°40’)にはデニソン岬史跡があります。これはダグラス・モーソン率いる1911~14年のオーストラリア・ニュージーランド隊の南極探検を記念したもので、モーソンは1914年にサーの位を授与されました。この南極探検はオーストラリア・イギリス両国政府、民間組織、そして個人による財政援助を受けて行われました。この時の個人支援者のひとり、シドニー在住のヒュー・デニソンが岬の名前となったのです。英国人であれば対岸の突端につけられた二つの名前 「ランズエンド」と「ジョン・オグローツ」 に心当たりがあるでしょう。この場所は南磁極に近く、モーソンの科学研究プログラムは主として地球上の磁場に関するものでした。モーソンは、1913年、東方の探検に出た3名のうちの唯一の生還者で他の6名と共に悲劇的な2回目の冬を過ごしたのです。

デニソン岬は短期間でも人間が住み着いた場所としては地球上で最も風の強い場所とされています。常に重力によって引き起こされるカタバ風(斜面降下風)が起こり、氷の斜面を滑り降り海岸に向かって吹きつけます。夏場の平均風速は24ノット(時速57km)ですが、瞬間風速で130ノット(時速242㎞)を記録したことがあります。その為、ゾディアック・ボートやヘリコプターでの上陸がしばしば不可能となります。大陸高地の青氷は強い風の証拠で、小屋のある辺りが穏やかな時でも氷河の突端では雪が渦巻状に吹雪いている事などは珍しくありません。ここの見所のひとつに、沖合にあるマッケレー小島のキノコ状の雪があります。強い風に吹きつけられた海水の飛沫が陸地に凍りついたもので、18mにもなる高さでニョキニョキ生えているのです。

コモンウェルス湾史跡には、本棟と作業棟、各種科学研究用の小さな小屋が建っています。訪問者はそれらの小屋に入ったり、周辺にある加工品や遺物(モーソン探険隊時代に遡るペンギンやアザラシの遺骸を含む)を乱したり持ち帰ったりしてはいけません。岬の周辺にはアデリーペンギンの営巣地が数多く見られ、アシナガウミツバメやトウゾクカモメ、ウェッデルアザラシもしばしば見られます。この場所一帯はオーストラリア政府南極局、オーストラリア遺産委員会が責任を持って管理を続けています。ここでは、1998年以来、保存者が時々働いており、建物の木部が強風により侵食されている様が見られます。

(南極旅行&南極クルーズ2-8)