サウスジョージア島
サウスジョージア島(South Georgia)
フォークランドの東南東約1,300kmにある三日月形をした山がちのサウスジョージア島は1675年に発見されました。その後1775年にジェームス・クック船長が最初に上陸して領有を宣言し、上陸した場所をポゼッション(領有) 湾と名づけました。当時のサウスジョージア島は今日以上にしばしば海氷に囲まれた島で、その為、クックはサウスサンドイッチ諸島と共に、「神によって永遠に極寒の地と運命付けられた土地、わずかな陽光のぬくもりも感じられない。その荒涼とした恐ろしい光景には語るべき言葉も見つからない」と記述しています。
イギリスは1908年にサウスジョージア島とサウスサンドイッチ諸島などの領有権を改めて正式に表明しました。今日ではこの2つの島が相まって単一の英国属領を形成しています。英国政府代表は弁務官で、通常はフォークランド諸島総督が兼務します。
サウスジョージア島は、長さ約160km、幅30km、 面積3,755平方kmの三日月状の島です。頂上に氷河を抱いた海抜1,800m以上の山が12あり、最高峰は海抜2,934mのペジェット山です。氷河も160箇所以上あり、その多くは海まで達しています。南西岸は偏西風に晒されて厳寒地の上、常に嵐が吹き荒れる場所です。安全な良港もありません。それとは逆に北岸は中央山岳地帯の陰にある為、比較的温和な土地となっています。数箇所のフィヨルドは安全な停泊が可能な為、1904年から捕鯨基地が築かれる様になりました。
但し、最初にやってきたのはオットセイ・アザラシ猟師で、それはクック船長が南大洋におびただしい数のオットセイが棲息していると報告した為でした。オットセイ猟は1786年には隆盛を極め、1912年まで続きました。それより早くから数の激減が見られ、後半の時期はオットセイではなく、ミナミゾウアザラシのみが貴重な油の原料として捕獲されていました。種を保存する為に政府の監督による近代的ゾウアザラシ猟は、1910年~1965年まで行われました。
ノルウェー人捕鯨業者(Norwegian Whalers)
捕鯨業者たちは1904年以来、サウスジョージア島にやって来て海岸に多数の処理基地を建設しました。彼らの主要目的は鯨油でしたが、後にそれ以外の製品も造る様になりました。1909年には、英国の治安判事がグリトヴィケン駐在となり、そこで始めて法律が施行される事になりました。治安判事の配下には税関吏、アザラシ監視官、無線通信員、整備士、コックなどがいました。治安判事の主要任務は捕鯨業界の監督管理で、捕鯨業者の借地料や入漁免許の条件が守られる様に厳しく指導する事でした。(しかし治安判事の任務には資源保護が含まれていた形跡はありません)
法律が施行されて程なく宗教もこの島に届きました。1913年クリスマスイブには、グリトヴィケンに教会が建立されたのです。この教会はよく維持されており、当初の機能を保持している唯一の建物です。捕鯨業者のほとんどがノルウェーの出身だったので最初の牧師もルーテル派のノルウェー人でしたが「捕鯨業者はもっと信仰を持つべきだ。」と悲しげに語っていたとの記述がなされています。
捕鯨漁の全盛期である1920年代にはサウスジョージア島では、6箇所の捕鯨基地と1箇所の陸上貯蔵庫がありました。1904年から1965年の間に合計17万5千頭ものクジラがサウスジョージア島近海で捕獲されたと推定されます。南極海全体では同時期で合計150万頭にのぼります。商業捕鯨は1965年に「捕り尽くし」という単純明瞭な理由で終焉を迎えました。商業捕鯨が終焉すると、権威をふるった14人のグリトヴィケン司令部は自分たちを管理する以外仕事が無くなり、英国南極観測局の要員と交替になりました。一方、アルゼンチンは1925年以来にサウスジョージア島とサウスサンドイッチ諸島の領土権を主張しており、1982年4月にフォークランド紛争の一環としてサウスジョージア島を3週間に亘って占領しましたが、イギリス軍に追い払われました。
イギリスとアルゼンチンの紛争(フォークランド紛争)の後を受けてグリトヴィケンに小規模の英国陸軍駐屯隊が19年間駐留しました。司令官は行政長官を、医務官は郵便局長も兼務しました。他にも港長(こうちょう)がいて漁船や訪れるクルーズ船を扱っています。西北端にあるバード島には英国の南極観測基地がありましたが、1982年以来、常駐基地となりました。
2001年には、キングエドワードポイントに政府事業所と英国南極観測局の建物が建てられました。放棄されていたグリトヴィケンの捕鯨基地跡は、訪問者の安全の為に大規模な危険物除去作業が行われ、水力発電所の設置により今では、ほとんどの電力を提供し、化石燃料の輸入を大幅に減らす事が出来ました。
1993年には、英国の200海里排他的経済水域制がサウスジョージア島およびサウスサンドイッチ諸島周辺にも宣言され、この海域での漁業には「南極の海洋生物の資源保護に関する条約(CCAMLR)」合意の事項が適用されるようになりました。さらなる調査の後、2012年には、水産資源の保持の為に一連の海洋保護区が指定されました。
訪問場所(Visitor Sites)
サウスジョージア島を訪れる人々の多くは、まず20世紀初頭に隆盛をきわめた大規模な捕鯨基地跡で時間を過ごす事が多いようです。基地内には再建された教会、以前は監督官の官舎で現在は捕鯨博物館になっている建物など見所がたくさんあります。あちこちでゾウアザラシが寝そべっているのも見る事ができます。そして何よりも有名なのはアーネスト・シャクルトン卿が葬られている小さな墓地です。1914年から1916年のシャクルトンの伝説的偉業にはサウスジョージア島の名前を欠かすことは出来ません。(この本の「南極探検の歴史」などの項参照)第一次世界大戦後シャクルトンは南極大陸へ再度の遠征に出発しました。彼の船クエスト号は1922年1月4日にサウスジョージア島に到着したのですが、その翌日、彼は心臓発作のため急死してしまったのです。彼の亡骸は未亡人の意志によりグリトヴィケンに葬られました。他に観光船がよく行く所は、ベイ・オブ・アイルのキングペンギン営巣地やソールズベリー平野の丘の上など、そしてプライオン島や他のワタリアホウドリ、オオフルマカモメが見られる所です。
サウスジョージア島の多くの浜辺はオットセイに占領されつつあります。あまりにも多いので上陸が危険になるほどです。しかし、ゾディアック・ボートで浜辺沿いにゆっくりクルーズすれば安全によく観察できるでしょう。ノルウェー人が第一次大戦以前に食料とスポーツ射的用にヨーロッパから持ち込んだ森林トナカイは数が増えすぎて、アホウドリの営巣を脅かす程になったのと、外来物持ち込禁止の方針を実現する為に2015~16年シーズン迄に駆除が実行されました。
(南極旅行&南極クルーズ2-2)