捕鯨
サウスジョージアで最初に捕獲されたクジラは、南極海の捕鯨の可能性を調べるためにやって来たノルウェー船ヘルタ号(C.A.ラーセン船長)がロイヤル・ベイで銛で仕留めたセミクジラでしたが、引き上げる前に流されてしまいました。
これはラーセン船長にとって初めてのサウスジョージアでしたが、ラーセンの鯨の数に関する観察が島の歴史を変えたと言えます。
彼が次に来たのは、1902年にオットー・ノルデンショルドが率いるスウェーデンの南極探検隊が乗ったアンタークティカ号船長としてでした。ノルデンショルド隊が南極から救出されブエノスアイレスに戻った時、ラーセンはサウスジョージアでの捕鯨に投資するよう資本家を説得しました。
ラーセンは1904年11月にグリトヴィケンに戻り、南極海最初の捕鯨基地を建設したのです。ロルフ号とルイズ号の2隻の輸送船で60名余りの人員とプレハブの工場建物と宿泊棟を運びました。
鯨は非常に豊富でキャッチャーボートのフォーツナ号一隻でカンバーランド湾内のほとんど全ての鯨を捕ってしまったほどです。
製品(品物)は、運送用の樽が足りないほどで、莫大な利益をもたらしました。
ラーセンのアルゼンチン捕鯨会社(略称ペスカ)に他社も続きました。
英国並びにノルウェーの会社が操業しましたが、従業員はほとんどがノルウェー人でした。捕鯨基地はオーシャン・ハーバー、ハスヴィック、ストロムネス、レイス・ハーバー、そしてプリンス・オラフ・ハーバーに開設しました。
ゴッドフルは基地ではなく捕鯨母船の係留地でした。
捕鯨母船は、鯨を処理する設備を積み込んだ古い船を安全な湾に係留したものです。
最初の捕鯨は非常に無駄が多いものでした。多くの鯨を湾内に持ち込んでも品質の良い皮下脂肪だけを取り除いた残りは廃棄していたのです。
水際は腐敗する死骸と白い骨で一杯になりました。
南極海の捕鯨は鯨の数がとてつもなく多く、簡単に捕獲できるので良い儲けになりました。
それでも、鯨油需要があれほど伸びなければ、捕鯨は拡大しなかったでしょう。
鯨油は灯火用、潤滑油そしてなめし皮に使われましたが、その市場は、凝固点を下げて固形化する方法が発見されて以来様変わりしました。
今や鯨油でマーガリンや固形石鹸ができるのです。油を抽出した残りの骨、肉から、まとめてグアノ(鳥糞肥料)と呼ばれる粉末が作られました。
グアノは農耕肥料や家畜用の補助飼料などに販売されました。サウスジョージアでは少ししか捕獲されませんでしたが、マッコウクジラの脳油は高級潤滑油、ろうそく、そして化粧品に使われました。
後年、鯨肉は冷凍され人間消費用や加工食品用のうま味増強に使われました。
捕鯨初期の時代にも他の場所で起こったように、新産業はクジラ資源をダメにしてしまうのではないかと言う危惧がありました。フォークランド知事ウィリアム・アラーディスは1906年に捕鯨業者を管理するために免許制を導入しました。
目的は捕鯨産業を奨励するが、持続可能の為の管理もすると言う物でした。
アラーディスは免許数を限定し、各捕鯨基地にはキャッチャーボートを2隻だけとしました。
さらに捕獲鯨の全ての部分を利用する事、子供を連れた雌は捕獲禁止にしました。
数の少ないミナミセミクジラは全面保護しました。
当時、全ての南極捕鯨母船はフォークランド属領海域で操業していたので、アラーディスの管理方法は鯨数を保持できるはずでしたが、1925年の遠洋型捕鯨母船の発明はその後の宿命を示唆する結果となってしまいました。
母船は船尾に傾斜路が出来ていて、そこから捕獲した鯨を引き上げて船内で全ての加工が出来ました。
遠洋母船形式最大の利点は、政府の規則が及ばない公海まで鯨を求めで出かけられる事でした。5年以内に、41隻の遠洋捕鯨母船と232隻のキャッチャーボートが南大洋で操業することになり、年毎の鯨捕獲数は14,219から40,201に急増しました。
その結果として、鯨油の生産過剰と価格の暴落による1年間の全基地休業でした(沈黙の1年)。その後、グリトヴィケン、レイス・ハーバーとハスヴィックだけが操業再開さました。グリトヴィケンだけがゾウアザラシ猟を含めた多角経営で利益を生み出し、レイス・ハーバーはサルネセン捕鯨会社の捕鯨船整備工場として機能しました。ハスヴィックは第二次世界大戦後の鯨油価格が上昇した際に再開されました。
ストロムネスは捕鯨船修理工場となりました。
捕鯨会社同士の競争のみならず、鯨油は他の獣脂や植物油と競合することになりました。捕鯨産業は次第に経済効率の問題に直面し、規制化も何度か試みられましたが、大規模捕鯨は続きました。
やがて陸上基地は閉鎖せざるを得なくなり、ノルウェー人経営の最後の基地であるグリトヴィケンは1962年に閉鎖されました。
日本の会社(ニチレイ)がグリトヴィケンとレイス・ハーバーを冷凍鯨肉の成功に望みをかけて短期間再開しましたが、既に鯨数自体が少なすぎ、レイス・ハーバーは最終的に1965年12月15日に閉鎖されました。サウスジョージアでは1904年12月24日にグリトヴィケンに最初の鯨が持ち込まれて以来、全基地で処理された鯨総数は175,250頭に上りました。
(南極旅行/サウスジョージア島22)