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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

サー・アーネスト・シャクルトン

サウスジョージアは英国の偉大な探検家サー・アーネスト・シャクルトン終焉の地として記憶に残るであろう。そしてそれだけでも歴史に名を残すに値するのだ。

ダンカン・カース(1954年)

アムンゼンとスコットが南極点を極めたのでシャクルトンは南極大陸をウエッデル海から南極点経由ロス海まで初めて横断する、英帝国南極横断探検隊を計画しました。この探検目的自体は失敗でしたが、極地探検史上まれにみる偉大な物語がうまれたのです。

シャクルトンの船エンデュアランス号は1914年11月5日にグリトヴィケンに着き約一ヶ月間装備点検と積み荷補充に費やす一方、科学者達は島を探検しました。
捕鯨業者の依頼でキングエドワード入り江を見下ろす低い丘の上に真の北極点と南極点の方向を示す2本の柱を立てて、捕鯨キャッチャーボートがそれに合わせて自分たちのコンパスを調節できるようにしました。

エンデュアランス号は12月5日サウスジョージアを出航しウエッデル海に向かいました。船は上陸予定地点であるヴァ-サル湾がもうすぐ見えそうな地点まで近付きながら氷に閉じ込められてしまい、北西方向に流された挙句沈んでしまいました。
乗組員達はサウスシェトランド諸島のエレファント島にたどり着きましたが、そこは救援が全く期待できない場所だったのです。
シャクルトンは救援を求められる場所まで行く事にしました。
直線距離ではより近いティエラ・デル・フエゴやフォークランドではなく、サウスジョージアに行くことにしたのは、強い偏西風と時計回りの周極海流が正しい方向に運んでくれると考えたからです。

シャクルトンと5名の同行者はエンデュアランス号付属のボートの一つ、長さわずか6.9mのジェームス・カード号で世界一の荒海を1,300㎞先にあるサウスジョージア島目指して乗り出したのです。
16日後ずぶ濡れで、飢えと喉の渇きに疲れ果てた6名に島の南岸が見えました。
しかし、そこで困難が終わったわけではありません。島に上陸する前に、ハリケーン級の暴風雨で、沖合のアネンコフ島の岩にたたきつけられて危うくボートごと沈むところでした。嵐を何とか切り抜けた6名は小さなロサ岬にある現在ケイブ・コヴと呼ばれるところに上陸しました。
そこで5日間休養した後、キングハーコン湾先端にあるペゴティ・ブラフに移り、ボートを裏返して寝起きしました。
しかし、彼らはまだ安全ではありません。全ての捕鯨基地は島の反対側にあったからです。その冬で最後の好天となった束の間の晴れ間をぬって,シャクルトンはフランク・ワースリーとトム・クリーンを伴って出発しました。
サウスジョージア島内陸はまだ測量されていなかったので、自分達でルートを見出さなければなりません。何度かの引き返しなどの苦難を含む36時間後、18ヶ月ぶりの文明の音、捕鯨基地の作業開始の汽笛を聞いたのです。
3人は疲れ果て、しかし意気揚々とストロムネス捕鯨基地の安全と快適な場所にたどり着きました。1916年5月20日の事でした。

次の日、捕鯨キャッチャーボートがキングハーコン湾に残っていた残りの3人とジェームス・カード号を救出しました。
(ジェームス・カード号はシャクルトンの出身校であるダルウィック・カレッジに展示されており、その複製はグリトヴィケンのサウスジョージア博物館に展示されています。)
それから、シャクルトン、ワースリー、クリーンの3人は捕鯨キャッチャーボート、サザン・スカイ号でエレファント島へ向かいましたが、氷に阻まれ、4回目の試みでやっと取り残された22名全員が救出されたのでした。
サウスジョージア島までのボート航海、そして島を横断しなければ、おそらくエンデュアランス号乗組員全員は死んでしまった事でしょう。シャクルトンの卓越した勇気とリーダーシップで全員が困難を乗り越えられたのでした。

シャクルトンは1921年、隊長としては三回目の南極探検のために南に向かいました。今回は学校時代の旧友が後援したシャクルトン・ロウェット探検隊でした。
その目的は広い範囲でしたが明確さを欠いていたと言えるでしょう。
目的の中には、海図上の位置や存在が疑われている島々の捜索、南極大陸沿岸線の測量、海洋学的観測などでした。
しかし、そのための設備・装備は貧弱で、古いアザラシ猟船を改造したクエスト号はグリトヴィケンにやっとたどり着いたほどでした。その翌日早朝(1922年1月5日)、シャクルトンは心筋梗塞により死亡してしまいました。
彼の亡骸は一旦モンテビデオまで運ばれましたが、そこでシャクルトン夫人がサウスジョージアに葬むる事を希望している事が分かり、1922年3月5日、今も残る捕鯨基地の教会で葬儀の後同墓地に葬られました。

一方、探検の方は計画通り進み、クエスト号はウエッデル海流氷群の中に入り、エレファント島を訪れた後サウスジョージアに引き替えし、そこで観測と測量を行いました。船がサウスジョージアを離れる前にシャクルトン慰霊のケルンと木の十字架がキングエドワード入り江の入り口にあるホープ・ポイントに建てられました。
それらは、その後近くに移されています。

(南極旅行/サウスジョージア島3)