南極・北極旅行&クルーズ 株式会社クルーズライフ

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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

ヨーロッパ人との接触

北極を訪れた初期のヨーロッパ人はおおかた、尊大な海軍職業軍人で、イヌイットとは没交渉でした。自分たちはあらゆる面で原住民より優れていると思い込んでいました。後に、より見識のある訪問者は、北極に着いての知識がはるかに多いイヌイットから学ぶべきことが多い事に気づきました。
探検家たちは極北でできるだけ時間を使わないようにしていたため、イヌイットの生活にはほとんど影響を与えていません。

19世紀末に捕鯨業者が北極にやって来ました。探検家たちと違って、捕鯨船の船員は2度の夏シーズンを利用できるようにしばしば一冬を北で過ごしました。
そのため、イヌイットとの密接な接触が起き、イヌイットは捕鯨船員たちが使用していた多くの省力設備について学び取り入れました。
これらの新製品には缶詰、服装、木のボート、金属製台所道具などです。
イヌイットは銃による狩猟や編み物、スコットランドのリールダンスやスクエアダンスなどを学びました。捕鯨船の船員たちはまた、酒類を持ち込みました。
ヨーロッパの病気も免疫のない人々への接触の副作用となり、場所によっては何百と言う犠牲者が出ました。地元の「もてなし」も多くのヨーロッパ人と原住極北人との混血人口を生み出しました。

捕鯨産業も、ホッキョククジラが絶滅寸前まで減り、電気の発明と鯨製品に取って代わるプラスチックの発明などにより消滅しました。
捕鯨産業の消滅はまた、イヌイットが依存し始めていた西欧の生活用品への接点を失いました。毛皮が北極への新しい繋がりとなって、各地に交易所がつくられ、小さな町もできました。カトリックと英国国教会の宣教師が到着し、イヌイットの伝統的な儀式、習慣、信念を教会の教義に置き換えていきました。
利点としては、教会が初めてイヌイットに現在も使われている書き言葉をもたらしたのです。

1950年代に遠距離早期警戒システム(DEW)を始めとする一連の軍事的防衛施設が建設されて、北極に多くの人々がやって来ました。
丁度この頃、カナダ政府はイヌイットの生存を助けるために連邦政府の管轄下において、補助金を交付したりしました。
最後の北極への侵入は油と他の地下資源を求めた1980年代でした。
今日でも昔ほどではありませんが北極西部を中心に同じ侵入は続いています。

(北極旅行&北極クルーズ4-14)