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南極クルーズ・北極クルーズの手引き

北極点への初期の挑戦

次の北極探検の立役者、フリチョフ・ナンセンを評価するには勇敢なアメリカ人探検家ジョージ・ワシントン・デロング大尉の末路について知る事が必要です。
デロングは北極点に迫る最も有利な方法はベーリング海峡を通る事だと確信して、1879年7月、サンフランシスコからジャネット号で出発しました。
小さなウランゲル島を大きな陸地と思い違いしていた事に気が付いた時には時既に遅く、船は氷に閉じ込めた挙句潰されてしまいました。
乗組員は捕鯨用ボート1艘とカッター 2艘に分乗してニュー・シベリア諸島を目指しました。少し進んだところで嵐に会い3艘はお互いを見失ってしまいました。
カッター1艘は間もなく跡形もなく消えてしまい、1艘はレナ河口デルタの東側に着きロシア人流刑者に発見されて、食糧と避難場所が必要な事を分かってもらえました。最後の1艘は同じデルタの北端部分に着いてしまい1週間分の食料だけで奮闘しましたが、助けを呼ぶべく先行した2名だけが助かり、話を伝えました。
しかし,デロング探検隊は全くの無駄ではなかったのです。
広大で複雑なレナ河デルタの一部が救援隊によって海図に記されただけでなく、ウランゲル島が離れ島である事、そしてシベリア沖の海流も正しく記録されました。
運命は時には思わぬ展開を見せるものです。ジャネット号の漂流物が北極海を流れてグリーンランドで見つかり、そのことで後のフラム号の航海に弾みがついたのです。

フリチョフ・ナンセンは身長183㌢金髪で青い目の、堂々たる体格のスカンジナビア人で鉄のような意志と組織能力を有し、親切さと純真さを兼ね備えていました。
作家であり、著名な科学者でもあり、紛れもない多才なルネッサンス的教養人でした。ノルウェーがスウェーデンから分離独立した際に彼が果たした役割や、第一次世界大戦中に高等弁務官として捕虜の人道的管理を行った働きにより、また戦後の難民担当の高等弁務官として示した博愛精神などにより、最も良く知られています。
「その素晴らしい誠実さは世界中に燦然と輝き、人類は皆彼に信頼を寄せた」として、1923年ノーベル平和賞を与えられました。名門の家に生まれ、若干21歳でオットセイ猟船に乗り込み、東グリーンランド海を航海して動物標本を採集し、ついでグリーンランド氷床の先駆的横断を成し遂げました。

1884年秋に、グリーンランド南西海岸でジャネット号の遺物が幾つか発見されていました。ナンセンはこう推測しました「氷板が北極海の未知の海域を横断して流れているとすれば、その流れを探検の考慮に入れて私の計画を立てた方がいいかもしれない」彼の考えは海流に逆らうのではなく海流と共に漂流する船を造ると言う物でした。彼の計画は周到でした。
ジャネット号の残骸の流れた速度から見て、最低3年はかかると判断し、装備を5年分用意しました。全ては北西海流と適切な船という2つの要素にかかっていました。
船の重要な特質は小型である事、堅固である事そして強力なエンジンです。
選ばれた12名の隊員全員が勇敢かつ屈強で、朗らかで夫々が何らかの専門的技能を持っていました。

ナンセンがジャネット号の遺品の話を読んでから9年後にフラム号はクリスチャニア(現オスロ)を出航しました。
船長のオットー・スヴェルドルプは船をノボシビルスク諸島に進め、そこから北へジャネット号を潰した流氷群の中へと深く入って行きました。
9月末までには船は氷に閉じ込められました。さあ、探検の始まりです!彼らは氷の為すがままでした。隊員は単調な日々を過ごす船を居心地良い場所にしつらえ始めました。探検の重要な二要素が試される時が来ました。
第一に、フラム号は流氷の猛攻に耐えられるか?何度かの氷の圧力に会い、徐々に船に対する信頼感が増すと氷が引き起こす振動や轟音が気にならなくなりました。
船はあらゆる期待に応えてくれました。
第二の、海流は彼らを所定の場所に運んでくれるか?またしても、答えは「イエス」でした。隊員達は安心して日課に取り掛かりました。

ナンセンは船の漂流による北への進行が期待したより遅いので待ちきれず、フレデリック・イェルマー・ヨハンセンと共に1895年3月14日フラム号を離れて犬ゾリで北極点に向かいました。
4月8日に二人は北緯86度13分6秒という新しい最北到達記録を樹立しました。
そこで食糧・装備全てを計算しなおした結果、安全に帰還できるチャンスがある限界と判断し引き返すことにしました。
南への旅もホッキョクグマに遭遇して殺さざるを得なかったなど危険をはらんだものでしたが、ついに遠く離れたフランツヨーゼフ・ランド諸島の一つにたどり着きました。二人は、今日ジャクソン島と呼ばれる島に作った急ごしらえの小屋で越冬しました。翌年5月再出発しました。
ナンセンは知りませんでしたが幸いなことに、諸島中最南端の島に建てた木造小屋を基地にしてすでに2年間観測活動をしていた英探検家フレデリック・ジャクソンと偶然会ったのです。
その年の夏にジャクソン隊の出迎え船ウィンドワード号が到着してナンセンとヨハンセンをノルウェーに連れ帰りました。
その後1週間も経ずしてフラム号も全員健康でノルウェーに着いたのです。船長スヴェルドルプは人類の海洋学知識に多大な貢献をした航海を終えました。
ナンセンは探検と著作を続けました。ナンセンとフラム号の航海は昔のヴァイキング魂を持った現代版サガだったと言えるでしょう。

一方、北西航路を初通過したロアール・アムンセンは冒険好きでスポーツ精神を持ち、未知のものに遭遇した時が最も幸せでした。
彼は悲劇に終わったスコット隊より1ヶ月早く南極点に初到達した事で最も良く知られていますが、彼の北西航路初通過は劇的なドラマは何も起こらなかったので、覚えている人はあまり多くないようです。
フランクリン隊全員遭難の悲劇が風化して必要な事が海図に書き留められると、世間は北西航路に対する興味を失っていきました。
アムンセンは探検家になるために学業を捨てるまでは医学生でした。
資金もさしたる援護者もなく一生財政問題に苦労しました。彼の最初の極地経験はベルジカ号による南極で、最初に南極圏内で越冬した隊の一員でした。
28歳の1900年には小さなニシン漁船ヨア号を買いました。
1903年6月の雨が降る深夜に、5年分の食糧を積んだヨア号はクリスチャニア(今のオスロ)を出航しました。
アムンセンは債権者が出航を差し止めようとおびやかしていたのをかわしたのです。

彼らはランカスター海峡からカナダ北極多島海に入り、ピール海峡、ジェームス・ロス海峡を推し進めキング・ウィリアム島の東南東端に着きました。
夏の終りには、今ではジョアヘブンと呼ばれている、冬を快適に過ごすには最適な小さな湾を見つけました。
そこで気象や、北磁極に非常に近かったので磁気観測もしながら二冬を過ごしました。土地のイヌイット族とも交流し彼らから犬ゾリ旅行の方法を会得しました。
1905年8月13日航海を再開し、13日後にはバンクス島南端のネルソン岬が見えました。彼らは北西航路で最も狭い部分を通り抜けたのです。西のバロー岬に向けてさらに進みましたが、ユーコン沿岸のキング島でもう一冬過さざるを得ませんでした。1906年8月ノーム港に到着し、北西航路を大西洋から太平洋まで通過したのです。

スカンジナビアの著名な探検家のリストにグリーンランドの有名な民俗学者クヌート・ラスムッセンの名前を加えるべきでしょう。
1921年から始まった彼の第五次探検では、4年かけてハドソン湾からアラスカまで犬ゾリとボートで横断しながらイヌイットの様々な部族と出会って、膨大な民俗学的情報を記録しました。
彼の記録が無ければこうした情報は永久に失われてしまった事でしょう。

(北極旅行&北極クルーズ3-5)