ロシア
ロシア領北極は2つの大陸と9つの時間帯にまたがっています。
(しかも、歴史的には北米大陸側のアラスカまで広がっていた事もありました。)
北半球の一国の海岸線としては最長のものです。それらの海岸線のほとんどは1年の内何か月も暗く(極夜)、海は凍結し、通り抜ける事が出来ません。
千年以上もの間ロシアは極夜、天候そして氷による制約を克服する方法を求めてきました。彼らは、もし北海航路を見つける事が出来れば、大西洋側のロシアの港から太平洋に抜ける所要日数を半減できる事を知っていました。
ロシアの極北にはいくつかの原住北方少数民族が住んでいます。それらは西側のサーミ、次にネネツとそれにつながる民族が中央部分に、そして極東部分にはチュクチとアジア側のエスキモーなどです。
少数民族の伝統的生活様式の多くは残っていますが、自給自足生活用にトナカイの放牧や海生哺乳類の猟に頼っています。
記録に残るロシア最初の北極海探検はノヴゴロド出身のウレブで、1032年にユゴルスキー・シャー海峡を通りカラ海に出ました。
16世紀には白海からオビ川まで続く偉大なマンガゼヤ交易ルート経由で豊かなシベリアの物資が西部ロシアまで運ばれていましたが、シベリアとの交易にヨーロッパ人が参入するのを防止し、帝国の貿易独占を維持するために1619年に交易ルートはロシア皇帝の命令により廃止されました。
ピョートル大帝がロシア帆船団を設立した時には既に、白海からベーリング海までの北極海沿岸の多くは探検されていました。
ピョートル大帝はヨーロッパ式の船体デザイン、操帆装置、海軍用語、地図作成法の基本などを取り入れ、それまでロシアが使っていた沿岸測量を大きく変えました。ピョートル大帝の海軍は新しく天文観測に基づいてロシアの地図を作り直しました。そのために、「偉大な北方探検(1733~43)」を行い、いくつかの探検隊の測量結果を統合して、ロシアの北極海全沿岸の測量を完了しました。
パヴェル・チチャゴフ船長は1764年に、白海からカムチャッカへの北極海航路を発見するための探検隊長に任命されました。2回挑戦し、2回失敗し、3隻船団は北極海の流氷のためスピッツベルゲンとグリーンランドの間を通る事もできませんでした。
北東航路を達成したのは1878-80の事で、スウェーデン人アドルフ・ノルデンショルド隊長のヴェガ号でした。次の通過そしてロシア人としての最初は1914-15にタミール号とヴァイガッチ号でした。
北極海に最初に挑戦したロシアの砕氷船は1899年のイェルマク号でした。同船は1901年にも航海しました。ステパン・マカロフ提督の下ノヴァヤゼムリャ島とフランツヨーゼフ・ランドに達しました。若干の破損はありましたが同船はその後も主に冬のバルチック海の航路を開けておくために使われました。
1932年には砕氷船シビリアコフ号が単年で北東航路を通過しました。(最後はプロペラ軸の破損のため帆走でしたが。。。)これで商業貨物もロシア北極航路経由で運べる事が証明されました。
北極海常設航路は1930年代に進歩し、5,000㌔余りに延長されました。
今日では、ロシアの砕氷船団が民間海運業のために北東航路を6月~10月の間開けておきます。北東航路は今や何千と言う数の船の主要航路となりました。
それに比較してカナダ側北極海を行く北西航路ではわずか5隻(2013年記録)の商業船記録です。合計しても、2013年までに北西航路を通過したのはわずか206隻で、ほとんどが小型船舶でした。但し、クォーク社運航のカピタン・フレヴニコフとカピタン・ドラニツィンは20回もお客様を乗せて通過しているのですが・・・
(北極旅行&北極クルーズ2-32)